再生日本21
「龍馬エッセー(14)」
(8.30.2010 by Kouichi Hattori)
大河ドラマ龍馬傳が佳境に入ってきた、薩長同盟の盟約成立である。龍馬を龍馬たらしめるに至った、薩長同盟仲介者としての面目躍如たるシーンである。それは幕府の知るところとなり、その後の龍馬は、京都守護職の松平容保(かたもり)配下の新撰組ほか京都見廻組によって命を狙われつづける。自らの命を捨てる覚悟をしてまで、新しい日本のために奔走した人物の真骨頂である。慶応2年(1866)1月22日から慶応3年(1867)11月15日まで、のこり2年ほどの命脈である。翌る慶応4年4月には、勝と西郷により田町薩摩藩江戸藩邸での会談がもたれ、江戸城は無血開城そして明治維新である。維新回天の原動力、龍馬ただひとり前人未踏の快挙を成し遂げたのだ。思想を行動力で示しうる人物が、いったい何人いることだろうか。錚々たる人物が輩出した幕末であっても、龍馬ほどの人物はいない。龍馬がいなければ、薩長同盟は無理だったと考えざるを得ない。
西郷と桂ふたりの信頼を得て、龍馬は仲介者として盟約書に朱文字で裏書きを施す。その「薩長同盟裏書」原本が、9月18日から皇居東御苑三の丸尚蔵館「皇室の文庫」展で一般公開される。これは龍馬ファンならずとも、現代人のすべてに一見するだけの価値がある。この朱書きが龍馬の血で記されたものであったと言われても、納得しそうなほどの迫力に満ちている。もちろん血であれば茶褐色に変色しているだろうし、朱(赤色の顔料。成分は硫化水銀。天然には辰砂しんしゃとして産する。水銀と硫黄とを混じ、これを加熱昇華させて製する。)に相違なかろうが、なぜか龍馬の血をイメージするのは小生だけではないだろう。龍馬にとってもそれに匹敵するぐらいの大仕事であったろう。小さな己へのこだわりを棄て、日本国の将来のために奔走した龍馬、このような人物は明治維新以降現代に至るまで偉人多しとはいえども、やはり滅多にお目にかかれるものではない。
龍馬自筆「薩長同盟裏書」を公開 宮内庁、皇室ゆかりの名品41件展示
2010.8.2 20:59
坂本竜馬が自ら書き込みした「薩長同盟裏書」(宮内庁提供) 坂本龍馬が薩長同盟の合意内容を保証する書き込みをした文書「薩長同盟裏(うら)書(がき)」など、皇室に伝わる貴重な史料を集めた「皇室の文(ふみ)庫(くら)」展が来月18日から、皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で開かれる。宮内庁書陵部によると、「薩長同盟裏書」は、1866(慶応2)年に薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)らが同盟の密約を交わした後、密約の実効性に不安を覚えた桂が、同盟の仲介人である龍馬に内容を確認するよう手紙で求め、龍馬が手紙の裏に赤字で間違いないと裏書きしたもの。木戸家から皇室に献上された。「皇室の文庫」展では、皇室に伝わる史料約40万点のなかから、貴重な41件を集めて展示。南北朝時代に活躍した北畠親房が所有していた「日本書紀」の写本など27件が初公開される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
薩長同盟の提携内容(6ヶ条)
一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事
一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事
一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事
一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事
一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事
一、冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり
表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。
※上記原文記載の人員の他には、坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名している。
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