この「先人達に学ぶ第二の人生」は、第二海援隊グループで運営している「老後安心クラブ」の会報誌『ゆうゆう自適』に連載しているものです。
いきなりですがクイズです。次の三つのキーワードから導き出される人物を当ててみて下さい。①.一万円札、②.慶應義塾、③. 学問のすゝめ。いかがでしょう? 答えは、福澤諭吉です。正解者は多かったのでは。今回は福澤諭吉の「第二の人生」に学びます。
一万円札に描かれている人物、福澤諭吉。彼は慶應義塾を設立した明治の代表的な啓蒙思想家です。代表的著作は先に挙げた『学問のすゝめ』の他、『西洋事情』、『文明論之概略』など。いずれもお聞きになったことがあるタイトルではないでしょうか。
さて、福澤諭吉の人生を簡単におさらいしてみましょう。福澤諭吉は天保5年(1835年)、中津藩(現在の大分県中津市)の下級藩士の次男(末っ子)として生まれました。安政元年(1854年)、19歳で長崎に遊学して蘭学(オランダ人やオランダ語を通じての西洋の学問)を学び、さらに翌安政2年(1855年)、大坂の名高い蘭学塾、緒方洪庵の適塾に入門。安政4年(1857年)には、最年少22歳で適塾の塾頭となります。緒方洪庵は医者で適塾は元来医学塾でしたが、諭吉は医学のみならず広く西洋の学問を学びました。安政6年(1859年)には、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団の一員として渡米。文久2年(1862年)には幕府の遣欧使節の翻訳方として渡欧。帰国後は『西洋事情』などを著し、本格的な啓蒙活動に入ります。この間、安政5年(1858年)に蘭学塾を開きますが、これが慶應義塾の始まりです(慶応4年(1868年)に「慶應義塾」と命名されます)。「敢為な精神をもって欧米諸国を見聞した福澤は、帰国後、古いしきたりや慣習にとらわれない教育を実践し、慶應義塾が継承する伝統の礎を築いたのです」(慶應義塾のホームページより)。明治維新後は終始民間の立場から、教育、啓蒙、言論活動を行ないました。
このように、福澤諭吉と言えば、日本の近代化、欧化の象徴のような人物だと思われていますし、実際そうであったと言えるでしょう。しかし、福澤はただそれだけの人物ではなかったのです。
現代風の言い方になりますが、福澤諭吉は体にいいコトは何をしていたでしょうか。テニス? ゴルフ? いいえ、居合です。晩年まで居合の鍛錬を続けていました。それも並大抵の鍛錬ではありません。60歳頃の記録によれば、1日1000本以上も抜いていたのです。しかも福澤が用いていたのは刃長2尺4寸9分(約75cm)という長めの日本刀で、これはかなり重いものです。筆者も居合をかじっていますが、こんな稽古は想像を絶します。
福澤は明治34年(1901年)に66歳で亡くなりますが、その年に『瘠我慢(やせがまん)の説』という著書が出されます。そしてその中で福澤は次のような論旨で勝海舟の江戸城無血開城を批判します。曰(いわ)く「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽す」のが「我日本国民に固有する瘠我慢の大主義」であり、勝海舟がそれを「破り、以(もっ)て立国の根本たる士気を弛(ゆる)めたるの罪は遁(のが)るべからず」。福澤諭吉は最後に武士道を説いて亡くなっていったのです。福澤は元々中津藩士。武士でした。武士の魂は晩年になってむしろ鋭い光を放っていたのかもしれません。
稻田雅彦
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