再生日本21
「龍馬エッセー(13)」
(8.17.2010 by Kouichi Hattori)
龍馬伝を視聴していて、長崎の女商人大浦慶(おおうら・けい)が実在したことを初めて知った。15日放映のエンディングのエピソードでは、その大浦慶が取りあげられた。その生涯については、フリー百科事典ウィキペディアに詳細に記されているので、のちほどお読みいただきたい。ドラマにおける初登場は、商人のたまり場だった長崎の友誼商館シーンであった。グラバー、小曽根乾堂らといっしょにいた唯一の女商人だった。女傑にふさわしい波瀾万丈の生涯を送っている。幕末の長崎には、このような人物もいたのだと考えるとなかなか楽しい。ウィキペディアは、大浦慶を日本茶輸出貿易の先駆者と称る。
【引用:嘉永6年(1853年)に通詞品川藤十郎と協力して出島のテキストルというオランダ人に嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文をした。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで、1万斤を集め、アメリカに輸出された。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった】
ひとり龍馬だけではなく、さまざまな人物との交流が取りあげられている。それだけ龍馬の交友関係が広かった証ともいえるわけで、一期一会のたんなる行きずりの関係で終わっていないところが刮目させられる。それは龍馬と丸山の芸妓お元との関係にもいえるわけだ。史実をたどる楽しみと、フィクション虚構の世界の両方を楽しめているのが龍馬伝である。1年間の大河ドラマともなると、ひとつのテーマについても、かなりの程度じっくりと勉強することができる。龍馬というスケールの大きな人物は、薩長の重鎮をはじめ長崎の大浦慶や丸山の芸妓お元らをふくめ、ありとあらゆる多くの同時代人から愛された。
しかもただ愛されただけではなく、皆が龍馬の支援者や協力者として、支えようとしたことが凄いところである。いつの世もできる人間は、人間的魅力をも兼ね備えているのだ。ともすれば人間が小さくなりがちな現代社会であるが、龍馬伝に登場する人物は、それぞれが個性に溢れ大きく生き生きしている。いまの世にも龍馬がいてくれたら、日本人はどれだけ勇気づけられることか。歴史を現代に生かせてこそ、歴史の価値がある。国が抱える事象は変わろうが、いつの時代も普遍性をもって光芒を放つものは、その国を動かすような人物たちの人間的魅力である。大河ドラマ龍馬伝から現代人が学ぶことは多い。
作家・コラムニスト 服部光一(はっとり・こういち)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E6%85%B6
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日(1828年7月30日) - 明治17年(1884年)4月13日)は、日本茶輸出貿易の先駆者。
生涯
文政11年(1828年)に長崎の油商、大浦太平次、佐恵の娘として生まれる。後に、賀古市郎右衛門の次男、大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入る。しかし、慶が9歳のときに死ぬ。大五郎の死後、幕末の動乱の中で変わり、財政的にもたなくなってきた。それに追い打ちをかけるように、天保14年10月24日(1843年12月15日)の夜に出来鍛冶屋町より出火した火は、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生した。大浦家は、この大火で大損害を受けた。この時、慶は16歳。慶は大浦家再興に尽くそうとした。
翌年、蘭学を学びに長崎にきていた天草の庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなる。
嘉永6年(1853年)に通詞品川藤十郎と協力して出島のテキストルというオランダ人に嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。
その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文をした。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで、1万斤を集め、アメリカに輸出された。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年(1861年)に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、慶応元年(1865年)に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。
日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬、大隈重信、松方正義、陸奥宗光らと親交があったとされる。
しかし、1860年代が終わろうとするころ輸出に陰りが見えはじめる。九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えていったのである。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。
明治4年(1871年)6月、慶の元へ熊本藩士の遠山一也が現れる。遠山は品川藤十郎の通詞で、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したとのことで、慶に保証人になってほしいと頼んできたのである。このとき遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎の名を勝手に使い、偽の印を押した証書を見せた。品川もしきりに連判することを勧めたため慶は保証人を引き受けることにしたが、それが命運のつきであった。オールト商会は遠山に手付金3000両を差し出したが、期限の9月になっても煙草を全く送ってこない。慶はオールト商会から手付金を返すように求められたため、熊本藩と交渉し遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、それが精一杯であった。実は、遠山は輸入反物で失敗し借金を返済するために慶を騙したのであった。これが、後にいう遠山事件である。
明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。
明治12年(1879年)6月にユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に慶が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は慶だけであった。
明治17年(1884年)、県令であった石田英吉が農商務省の農商務権大書記官であった岩山敬義に、慶が既に危篤状態であるため生きているうちに賞をあげてほしいと要請したところ、4月5日に西郷従道から受賞の知らせを電報で伝えられ、翌日に石田の使者が慶の家に出向いて受賞を知らせた。明治政府は慶に対し、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。
その1週間後、慶は57歳で生涯をとじたのであった。借金は死ぬまでに完済していたとされる。墓所は長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地。
「歴史を知る者は国を治め世界を制する」と言われております。我が国のように歴史が軽視されている国は有りません。歴史学者はもっと世の中の前面に立つべきです。
近年、機械・建築・電気等の「工学の歴史」が研究されてきまた。これが工学の進歩に大きく寄与しております。
政治・経済・外交等においても当然ながら
歴史に基ずく政策の検討がなされるべきであります。(歴史の遡り年表を作成し勉強しております。教科書もこの方が良いと考えております)
戦後70年、我が国もここで明治維新からの歩みを省みて、心を新たにしてこの国を建て直すときに来ております。
「アベノミクス」を単なる一時の景気に終わらせてはなりません。国家の仕組みを変えなければなりません。
投稿情報: 古川典保 | 2013年4 月 7日 (日) 16:30