再生日本21
「龍馬エッセー(16)」
(10.18.2010 by Kouichi Hattori)
http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-bb44.html
先刻まで中岡慎太郎を語るブログを読んでいた。慶応三年(1867)12月10日、京・近江屋にいた海援隊長坂本龍馬と陸援隊長中岡慎太郎のふたりはともに暗殺されたが、一般的にはいままで龍馬の華々しい活躍に比べて中岡慎太郎の影は薄かった。それは上記ブロガーが記されている内容そのものだったといえる。円山公園にある御所を向いた龍馬の立ち姿と慎太郎の屈膝姿、その銅像から受ける印象も言い得て妙である。ここに1冊の本がある。1965年4月30日に初版が刊行されたプリンストン大学マリアス・ジャンセン教授の著になる「坂本龍馬と明治維新」、これを先日読んでいて、258ページにポストイット付箋を貼った。
さっそく引用してみよう。「土佐を出てのち諸方を旅し、危難にあってきたおかげで、彼(中岡)は広い視野をもてるようになった。彼の精神的洗練が一部は長州人との相互教育によるものであることには疑問がない。しかし同時に彼は、この多忙な歳月の間にも、時間をみつけては読書につとめた。活動と旅に明け暮れる日々にも、待機し、あるいは引きこもっている時間はあったし、中岡はそれをよく利用した。彼は日記に読書の習慣を書きとめている。そこでは古い時代の智慧が一貫して重視されており、この庄屋出身の人物の教育の本質がよくわかる。彼は古典を語り、あるときは大学、前漢書、中庸解、孫子などを抜き書きしている。
また総督林則徐のことや、武力でイギリスに当たろうとして破滅を招いた清国のことを記し、長崎からの報知とか長崎新聞などの言葉も見られる。とくに重要なのは、福沢諭吉の西洋事情についての記述があることである。幕末期に福沢が叢書の形で刊行したこの小著は、あらゆる階層の日本人に西洋知識を与えるのに非常に役立ったものであった」、中岡はなかなかの読書家だったことが分かる一文である。龍馬は、どちらかといえば勝海舟や横井小楠、大久保一翁らとの交流による耳学問が主であったのにたいし、いっぽうの中岡慎太郎のほうは長州人など志士らとの交流に加えて、自ら学ぶ読書の習慣が身についていたようだ。
その中岡は、幕末の志士を評したなかで、先覚者として禁門の変で死んだ久坂玄瑞について、つぎのように述べている。p.260「吉田松陰の弟子で英学者だった久坂は、異人の心をよく知っていた。彼はよく、ロシアのピョートルやアメリカのワシントンといった人たちの事績を見ると、異人の国でも危急のばあいは……、彼は口癖のように、ある瞬間に直接行動をためらうようなものは、永久に何もやれない、そういう人間は成功の見込みの有無ばかりを考えて時を逸してしまうからだ、といっていた」、久坂を英学者だったと記している。久坂も抜きんでた勉強家だったのだ。
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