再生日本21
「龍馬エッセー(17)」
(11.11.2010 by Kouichi Hattori)
ジョン万次郎と河田小龍が、龍馬に与えた影響
http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/kawada/kawada.htm
このエッセーのおかげで、Google検索エンジンでヒットした、じつに多種多様のHPを閲覧できている。NHK大河ドラマもエンディングが近づいており、そろそろ京都河原町蛸薬師にあった近江屋における、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺事件にまつわる首謀者の謎についてもふれないわけにはゆかない。京都見廻組、新撰組、薩摩藩の大久保や西郷、土佐藩の後藤象二郎、グラバーの属したフリーメーソン組織、紀州藩士等々、諸説紛々たる状況である。佐々木只三郎率いる見廻組説が、戊辰戦争を生き延びた今井信郎の証言により、もっとも信憑性が高いとされている。新撰組説については、現場に残された刀の鞘が、伊予出身の原田左乃助のものであったという物証によるが、現在では支持されていない。
徳川の武力討伐を是とする薩摩藩は、徳川を温存させようとする大政奉還や慶喜の処遇を巡って、ことごとく龍馬と意見が合わなくなり龍馬暗殺を企てたという。土佐の後藤説では、大政奉還・船中八策の手柄を後藤が独占したがったからだと述べている。紀州藩士説では、海援隊いろは丸への衝突沈没事件にからむ賠償問題が恨みとなって尾を引いていたとする。グラバーやアーネスト・サトウらフリーメーソン説では、武力討伐による武器売却で莫大な利益を得ようとしたとする。それぞれの立場に立てば、たしかに一理ある陰謀説である。龍馬も話し合いによる解決が不可能であれば武力討伐もやむなしと考え、ミニエールほか新式銃を1000挺も長崎の岩崎弥太郎率いる土佐商会に購入させてはいた。
薩摩藩やフリーメーソンら徳川武力討伐派にとって、内乱抑止徳川温存派の龍馬らは鬱陶しかったのだろうとみるのが、一見妥当な理解の仕方かと思えるものの、龍馬といっしょに暗殺された中岡慎太郎が武断派だったことを考えると、これもどうかなと首を捻ってしまう。龍馬がアジトを近江屋に代えたのが暗殺三日前、越前福井の三岡八郎との会談を終えて上洛、風邪気味で体調は芳しくなかった。暗殺犯らは龍馬の居所を知っている中岡慎太郎を尾行しつづけ、中岡が近江屋に入ったところで龍馬ともども斬りかかったとすれば、暗殺犯には徳川討伐や徳川温存のイデオロギー思想傾向的な背景は無かったのかもしれない。寺田屋事件で龍馬は、伏見奉行所の捕り方数名を殺傷しているお尋ね者であった。
徳川の京都市中警備を担当する会津藩・松平容保配下の京都見廻組や新撰組には、殺人者であり徳川幕藩体制にとっては危険人物である龍馬を、捕縛さらには暗殺するに値するだけの事由があった。しかしながら松平容保は大政奉還容認派だったというから、見廻組説を奉じる研究者らは、佐々木只三郎の独断専行だったと述べている。さて、「坂本龍馬中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている河原町通りに面した処は、当時の近江屋の北隣にあたるようだ。石碑建立場所が隣地になったのは、1927年(昭和2年)の建立の際に、土地所有者の了承が得られなかったためとされているようである。旅行社が入居している石碑建立地の向かって左(南側四条寄り)らしいので申し添えておこう。
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