円高の年の終わりに、「“マイナス成長―財政破綻”を阻止するために 成長戦略としての為替政策を問う」と題する論文を掲載します。今年(平成22年)6月に書いたものですが、内容は円高問題を通じて我が国の戦後体制を問うものですので、今でも十分通用すると考えます。かなり長いですが全文お読みいただき、ご意見・ご感想等賜れれば幸甚です。
6月8日、菅内閣がスタートしました。それを報じる翌日の新聞各紙は次のような見出しを1面トップに掲げました。「強い財政追求」(朝日)、「財政再建、超党派で議論」(読売)、「『成長と財政再建』両立」(日経)。このように菅内閣の最大課題が財政再建であることは今や国民共通の認識になってきています。また、最も望ましい財政再建のあり方は、経済成長によって税収が伸びることによる財政再建ですから、日本経済新聞の見出しにありますように、成長戦略も財政再建を論じる際には極めて重要になってきます。そこで本稿では、財政再建問題を考える時、基本的に認識しておかなくてはならない点を確認した上で、成長戦略、とりわけ為替政策についてその可能性と限界を述べていこうと思います。
財政改革の本丸は社会保障
ここのところ様々な角度から日本の財政問題が報じられていますが、その中でピンポイントで的を得た指摘をされていると感じたのが、2月1日付日本経済新聞朝刊に掲載された「歳出改革、本丸は社会保障」という井堀利宏東大大学院教授のお話でした。井堀教授は以前、政府税制調査会の委員もされていた財政学の専門家です。その井堀教授にインタビュアーが「鳩山政権の財政運営をどう評価しますか」と問うたのに対し、井堀教授はこう答えます。「財政規律の優先順位がかなり低い。(中略)今を乗り切れば、日本経済がまた良くなるというならいいが、このままでは10~20年後はもっと厳しいのではないか。経済成長は慢性的にマイナスになるかもしれない。若い人たちは団塊世代の社会保障を支えつつ、今の財政赤字のツケも払わされる。(中略)歳出改革の本丸はやはり社会保障だ。痛みも伴う改革、必要性の低い給付の効率化や抑制がないと財政は持たない」。
公共事業費は5兆円、社会保障費は27兆円!
この井堀教授の話を読んで、多くの方は「なぜいきなり社会保障なんだ? まず無駄な公共事業を削るべきだろう」と思われたのではないでしょうか。八ッ場ダムに象徴される「無駄な公共事業」は、財政問題を論ずる時必ず取り上げられます。確かに「無駄な公共事業」をやめる必要はあるでしょう。しかし実は、極端な話で公共事業をゼロにしたとしても、財政の問題は解決しないのです。
「国家財政が大変だ」と不安に駆られている方は多いのですが、意外と予算の中身はご覧になっていないようです。そこで平成22年度予算の中身を見てみることにしますが、平成22年度の一般会計予算で、公共事業費は5兆7731億円(前年度当初予算比18.3%減)に過ぎません。歳出で最も大きいのは社会保障関係費で27兆2686億円(同9.8%増)、次が国債費(国債に関する償還、利払い、事務取扱費の総コスト)で20兆6491億円(同2.0%増)です。これだけ見ても、問題は一に社会保障費、二に国債費と考えるのが普通でしょう。
さらに、下のグラフをご覧下さい。これは今年1月、財務省主計局(予算編成を司る部局)が作成した「我が国の財政事情」という資料の中にある「一般会計の主要経費別歳出額の推移」というグラフです。これを見れば一目瞭然です。歳出の中で恐ろしいほどの勢いで増え続けているのも、一に社会保障費、二に国債費なのです。
井堀教授のコメントが掲載されていた2月1日の日経新聞には、当時の菅直人財務相のインタビューも掲載されていました。1面に掲載されたその記事の見出しは「社会保障財源6兆円不足」。平成23年度予算では、社会保障関係費だけで約6兆円の追加財源を探す必要があるというのです。6兆円の追加財源ということは、上記平成22年度予算で5兆7731億円の公共事業費をゼロにしてその分を全て回しても足りないということです。さらにそれから約1ヵ月後の3月12日の日本経済新聞には、野田佳彦財務副大臣(当時。現財務相)のインタビューが掲載されたのですが、その見出しは「11年度財源不足 社会保障、7兆円超」。11年度というのは2011年度ということですから、上記の平成23年度と同じです。たった1ヶ月で平成23年度予算における社会保障の財源不足額は1兆円以上も増え、7兆円超になってしまったわけです。いずれにしても、どう考えても社会保障に大胆なメスを入れ、財源問題に真剣に取り組まねばならないのは明らかではないかと考えます。
小さくなる経済規模、減少する税収
社会保障費が本丸ということ以外にもう一つ、先の記事の中で井堀教授は重大な指摘をされています。「経済成長は慢性的にマイナスになるかもしれない」というところです。井堀教授はここでは「かもしれない」と述べていますが、実は既に5年近く前に、井堀教授は将来の日本のマクロ経済について試算をし、その結果として「数年後から日本のマクロの経済規模は縮小することになった」と断定的に述べているのです。
今から約5年前の2005年10月29日、都内のある大学で「日本財政、破綻を免れるためには」というシンポジウムが行なわれました。このシンポジウムの参加者は、当時政府税調会長であった石弘光氏。人口減少経済の問題点を早くから指摘されていた政策研究大学院大学教授の松谷明彦氏。経済界を代表して経済同友会代表理事の方。そして、当時政府税調特別委員もされていた井堀教授でした。
このシンポジウムでは、まず松谷教授が日本経済縮小論を主張しました。「これからわれわれは経験したことのない人口減少、右肩下がりの経済という時代を迎える。2010年代の半ばくらいまでの間には、間違いなくマイナス成長に陥る」。これに対し、石税調会長(当時)は立場もあるのでしょうか、「マイナス成長、税収減とまではいかないのではないか」と楽観論を展開しました。井堀教授が発言したのはその後です。「私も最近試算をしたが、結果は松谷さんが指摘したように、数年後から日本のマクロの経済規模は縮小するということになった。よほど楽観的な技術進歩を想定しない限りは、少子化で労働市場に入ってくる人の数が減り、貯蓄率もどんどん低下していくので、GDPはやがては減らざるを得ない」。
財政危機を乗り越えた戦後のアメリカ
実は先進国で今の日本並みに借金を負い、そこから立ち直った国は存在します。終戦直後のアメリカです。
終戦直後のアメリカといえば、われわれ日本人からすると大変豊かなイメージがありますが、実際は大恐慌に続く大戦争で、終戦の年1945年の国債発行残高は国民所得比で160%にも達していました。では、なぜアメリカは財政破綻しなかったのでしょうか。色々な要因はありますが、基本は経済成長したからです。戦後のアメリカは、世界経済の復興に合わせて世界に向かって物資を供給し続けることで、「黄金の50年代、60年代」という時代を作りました。こうして経済が成長し、税収が増えたがために、財政は回復していったのです。
このように、国の経済規模、GDPが大きくなるかどうかというのは、財政問題を考える時には極めて重要です。経済成長によって財政危機を克服する。これがもし可能であればベストなシナリオです。しかし、井堀教授、松谷教授が指摘するように、これからの日本に安易にそれを期待することはできません。
18年前と同じ日本のGDP
それを裏付ける数字が5月20日、内閣府から発表されました。最新のGDP統計です。それによれば、2009年度の名目GDPは475兆8982億円。この水準は実に今から18年前の1991年度(平成3年度)とほぼ同じなのです。ちなみにさらに18年さかのぼった1973年度(昭和48年度)の名目GDPは、今とは計算基準はやや異なりますが116兆円です。つまり、日本経済は昭和40年代の終わりから平成の初めにかけての18年間では4倍にも拡大したのですが、それ以降の18年間は全く成長できなくなってしまっているのです。本格的に人口減少社会に入るこれからの15年、20年は、マイナス成長になっても全くおかしくありません。
慢性的なマイナス成長ということは、基本的に慢性的に税収が減るということを意味します。そうであるならば、何としても財政規模を膨らましてはなりません。先のシンポジウムでの松谷教授の発言です。「これからやるべきことはどんなことをしても支出を削減することだ。それが可能かと言われれば政治的には非常に難しい話だと思うが、そうしなければ破綻する」。
経済成長を計るために――求められる円安だが・・・・・・
今まで見てきましたように、経済成長の見通しは極めて厳しいと言わざるを得ません。何とか経済成長への道はないものでしょうか。民主党政権は昨年末、「新成長戦略(基本方針)」をまとめました。それによれば、公共事業・財政頼みの「第一の道」、行き過ぎた市場原理主義の「第二の道」、この二つの失敗を踏まえ、そのいずれでもない「第三の道」を進むとしています。「第三の道」とは、環境・健康・観光の三分野で「新たな需要の創造」により雇用を生み、国民生活の向上に主眼を置く「新成長戦略」であり、それにより2020年度までの平均で、名目3%、実質2%を上回る成長、2020年度におけるわが国の名目GDP650兆円程度を目指すというものです。政治的プロパガンダと解すべきとは言え、ずいぶん大きく出たなという感じは否めません。具体的中身はまだないと言っていいでしょう。
一方で菅首相は為替相場について「円安は日本経済にプラス」と語っています。実はこれは掛け値なしに正しいと考えられます。それは、下のグラフを見ていただければ、一目瞭然です。これは日経平均株価とドル円相場のチャートを重ねたものです。以前からこの両者の相関は高かったのですが、特に2005年以降はその傾向が強まり、相関係数は実に0.9にもなっています。円安になれば日経平均株価は上り、円高になれば下がる。この傾向が顕著に見られるのです。
実は意外にもわが国のGDPに占める輸出の割合はそれ程高くありません。年によって若干変動はありますが、概ね十数%にすぎません。しかし、輸出企業にとって有利な円安になれば、輸出企業が潤い(実は輸出企業に限らず、円安になると輸入物価が上がりますので、国内製造業全体の競争力も増します)、企業業績が上がれば、給与も上がってGDPの半分以上を占める個人消費も拡大する・・・・・・。こういった更なる経済波及効果が期待されて、円安になると「日経平均は輸出企業を中心に買われて全面高」になるわけです。したがって、日本経済にとってプラスになる円安、とりわけ安定的な円安が望まれるわけです。筆者は、ここに日本経済成長の鍵があるといって過言ではないとすら考えています。
円安が日本経済にとって望ましいという声は産業界はもちろん、一部金融界からも聞かれます。その代表が元モルガン銀行東京支店長で「伝説のトレーダー」との異名も持つ藤巻健史氏です。藤巻氏は円安政策を採ることを主張し、為替介入や日銀による米国債の買い上げ、あるいはドル建ての日本国債の発行などの方法で、低コストで簡単に円安に誘導できると主張します。本当にそれで簡単に円安にできるのであれば、筆者は是非そうしてもらいたいと願う者です。しかし、それは難しい。それが現実だと考えています。そう考える理由を、過去の為替相場と政治の動きを振り返りながら、説明していきましょう。
為替は国力のある国の為替政策を反映する
下のグラフは30年近いドル円の為替チャートに購買力平価を重ねたものです。購買力平価というのは物価の比較です。例えば1982年にはアメリカで1ドルで売られているものは日本では210円で売られていた。それが2009年だと1ドルのものは115円にまで安くなっている。そういうことを意味しています。これは日本が長期にわたってデフレ、ないしは低インフレにあり、その間アメリカは普通にインフレだったためにそういうことになっているわけです(なお、購買力平価と言っても何の物価かで色々な数字の取り方があります。ここで採用しているのはOECD発表の数字です)。
1991年以降で見てみますと、チャートの中で○を付けた2箇所、ここが円高と円安のピークになっています。そこで、それぞれの局面でどういうことが起こっていたのかを見ていきましょう。
まずは1995年の「超円高」局面です。瞬間的に1ドル=80円を割りました。上述したOECD発表の購買力平価によれば1995年の購買力平価は174円です。これを妥当な為替水準を考える時の一つの目安としますと、80円割れというのは2倍以上の円高ですから、まさに「超円高」だったわけです。ではなぜ、そんな極端な円高になったのか。80円を割ったのは1995年4月19日ですが、日本経済新聞の19日の朝刊・夕刊と翌20日の朝刊は次のように伝えています。
まず4月19日の朝刊ですが、「円相場大幅続伸 日銀介入効かず」という見出しで、日銀は円売り・ドル買い介入を継続しているけれども、その効果が上がらないことを伝えています。19日の夕刊では「円、ついに80円突破」という大見出しの下に「日銀、断続的に介入」という見出しを付け、やはり「日銀は断続的に合計2億-3億ドルの円売り・ドル買い介入を実施しているが、円買いの勢いは収まっていない」と報じています。日銀の単独介入では為替市場は動かないのです。
翌4月20日の日経朝刊にはこのような見出しが躍っています。「米側発言 敏感に反応」「米政権“意地悪な円高黙認”?」「自動車交渉も材料」。記事にはこのようにあります。「米閣僚の発言がしばしばドル安を助長する。3月下旬にもカンターUSTR代表が『円高は日本の黒字を縮小させる効果もある』と述べ、市場のドル売りを強める一因になった」。つまり、この超円高の背景には、当時米国内で不満が高まっていた自動車を中心とした日米貿易摩擦問題があり、それがためにアメリカ側は円高を黙認、ないし助長するような発言を続け、為替市場はそれに反応してどんどん円高が進行していったというわけです。
ここで明らかなのは、日本側は相当な資金をつぎ込んで介入しても為替市場は動かないのに対し、アメリカ側は口先介入だけで市場を思うように動かしているという彼我の市場への影響力の差です。こういった事実に関して、金融の世界の人間からは、学者からも市場関係者からも、きちんとした解説はほとんどなされません。それは金融や市場をその世界の中の理論でのみ語ろうとするからです。筆者が知る限り、為替動向と政治の問題に関してはっきりと指摘、解説しているのは、元阪南大学教授の石田護氏くらいです。
石田氏は伊藤忠商事に長く勤務し、伊藤忠ファイナンス会長なども歴任した方です。元々現場の経済人ですから、「経済の現象あるいは経済学につきまして、現場の体験に合うのか合わないのか、それをいつも理論とチェックしてやっていく習慣がついております」と言っています。その石田氏はかつて日本経済新聞紙上で「為替変動の政治経済学」と題する論文を連載し、その中で次のように述べています。「経済理論は為替変動の説明を苦手としている。為替変動は通貨の需給によって決まるが、需給を動かす政治要因が考慮されないためである。(中略)円ドルレートの中期波動が米為替政策と一致している(中略)為替変動は基本的には経済要因に基づくが、過度の円高やドル高はたいてい米当局の意向が変動を増幅した結果なのである」。また石田氏はかつて日経公社債情報誌上で「市場は米当局の意向に敬意と警戒を示し続けている」とも述べています。現実の為替の動きは、確かにこの石田氏の指摘のようになっています。よく「為替は国力を反映する」と言いますが、筆者はそれは俗説であると考えています。実際は「為替は国力のある国の為替政策を反映する」というのが正しい姿だと言えるでしょう。
電話一本で円相場を動かした中国
次に1998年の円安局面に目を転じてみましょう。この時は1995年の円高局面とは一変、アメリカはドル高政策を採っていました。当時のアメリカの実質経済成長率を見てみますと、1995年度が2.5%と苦しかったのに対し、96年度が3.7%、97年度は4.5%と、好景気を謳歌していました。好調なアメリカ経済にとって望ましいのは、株式市場や債券市場への資金流入でした。そこで、アメリカは日本をはじめ世界中からマネーを流入させるためにドル高政策を採ったわけです。
1998年6月16日、東京市場では一時1ドル=146円75銭まで円安が進みました。その翌日の6月17日、日米両国は欧米外為市場で協調介入し、円相場は一気に反転。一時1ドル=137円台まで急騰したと翌18日の日経朝刊は伝えています。
実はここまで円安・ドル高が進む前の1998年4月上旬、行き過ぎた円安にストップをかけるために、政府・日銀はかなりの額の円買い・ドル売りの単独介入を行なっています。日経金融新聞によれば、この時は外貨準備高の約1割に相当する200億ドルを費やしたのですが、市場からは「日本が単独で介入しても効かない」と足元を見透かす声が席巻していたといいます。結局、円安・ドル高の流れを変えるのも、アメリカが腰を上げた協調介入を待つしかなかった……わけですが、実は私ども日本人にとっては更に屈辱的な事実があるのです。その事実は上に掲載した新聞記事の中で左下に拡大してあるベタ記事に書かれています。日米協調介入が行なわれたのは1998年6月17日。それから約半月後の7月2日に、ルービン米財務長官(当時)は記者団にこう語りました。「6月17日の日米両国による外国為替市場での協調介入の数日前に中国政府高官から電話があり、円安について協議した」。これは何を意味するのでしょうか? 円安に関し中国がアメリカにクレームをつけたということです。それも、「これ以上の円安はもう許さない」というくらい強い態度で迫ったと考えられます。なぜならば、このクレームを受けて、アメリカが協調介入に動いたわけですから。
言うまでもなく、円安は日本の輸出競争力を高めます。品質に優れた日本製商品が円安により競争力が増せば、低品質で安さがウリの中国製商品は当然苦戦を強いられます。この年5月には、中国の輸出は23ヶ月ぶりにマイナスとなり、中国政府は危機感を強め、我慢は限界に達していたのです。
それにしても……です。わが国は自国の通貨である円相場に、多額の資金を投じても市場の流れを変えることができない――市場になめられている――のに対し、中国は電話一本でアメリカを協調介入に動かし、自国の通貨ではない円相場さえ動かす力があるのです。最近、わが国のGDPが年内にも中国に抜かれる、「経済大国中国」ということがマスコミでもよく取り上げられます。しかし、国際的な影響力という面では、実はもう10年以上前からわが国は中国の足下にも及んでいなかったというのが事実なのです。
揺るぎない中国の為替政策
もう少し中国の為替政策を見ておきましょう。80年代から90年代にかけて日米貿易摩擦が激しかった頃、アメリカの貿易赤字に占める対日赤字の割合は最大で6割を超えていました。今は約1割に過ぎません。日本に代わってウェイトを高めたのはもちろん中国です。今、アメリカの貿易赤字の中で対中赤字は約5割を占めるまでになっています。当然、アメリカからは人民元切り上げ圧力が高まります。そういう状況をどうこなしていくか。そこに外交力が表れます。
2005年7月21日、中国はそれまで米ドルとの間で固定していた人民元の為替レートを2%切り上げ、また同時に固定相場制をやめ、そこからしっかりコントロールしながらじわじわと人民元を切り上げていきます。
じわじわと人民元を切り上げてきた中国政府は、2008年7月にピタッとその動きをストップさせます。なぜか? サブプライム問題に端を発した金融危機から世界同時不況に陥ろうとする経済状況下で、自国産業の優位性を保つには人民元を切り上げるわけにはいかないという判断です。それは他国に何も言わせない断固たる決断でした。こうした断固とした為替政策により、中国の実質経済成長率は、2007年が13.0%。先進諸国が低成長、マイナス成長に陥った2008年、2009年も、9.6%、8.7%という高い成長率を持続できたのです。
アメリカに批判を許さない中国のすごみ
人民元切り上げをストップさせるというこの中国の為替政策に対し、本来ならばまずアメリカがかなりのトーンで批判するはずです。しかし、それはできませんでした。というより、中国側がそうさせなかったのです。
中国は貿易黒字の急拡大を背景に、2006年2月、日本を抜いて外貨準備高世界一になり、また貯まった外貨の大半は米国債で運用しているため、米国債保有残高でも2008年9月に日本を抜いて世界一になりました。「世界一の米国債保有国」という現実。中国はこれを対米外交の武器に使ったのです。
それを象徴するのが、2009年6月のガイトナー米財務長官の訪中です。この時、中国側が米国債の価格下落への懸念を示したのに対し、ガイトナー長官は完全に守勢に回り、オバマ政権の4年間で財政赤字を半減させる構想だと説明して中国側の懸念の払拭にやっきになりました。人民元問題に関しては、改革を評価こそすれ、批判はまったく口にできませんでした。中国は、覇権国家アメリカに文句は言わせず、アメリカの財政赤字半減を公約までさせたのです。
かつて日本が世界一の米国債保有国だった1997年6月、当時の橋本龍太郎首相の発言が物議をかもしたことがありました。「米国債を売りたい誘惑に駆られたことがある」という発言です。これを受けて、一時ニューヨーク証券取引所の株価は下落しましたが、それはつかの間でした。橋本首相発言の後、大蔵省がすぐ発言を否定。当時の日本経済新聞のコラムは、「一国の首相発言を役人が言下に否定するのも変な国だ」と書いていますが、そういう変な国なのです。日本の場合、こういう恥をさらしてでも結局は対米従属するしかないというのが現実です。市場には「確かに日本が米国債を売れるはずがない」という安心感がすぐ浸透しました。同じく米国債を大量保有していても、中国との違いはあまりに歴然としています。
米財務省によれば、2009年4月末の中国の米国債保有残高は前月より減りました。減ったのは10ヶ月ぶりです。その事実が明らかになった時、中国外務省の秦剛副報道局長は記者会見で、米国債保有残高が減ったことについて、次のように述べました。「中国の外貨準備は我々の必要に応じて運用する」。中国はここでも米国にまったく媚びない堂々たる国家の姿勢を示しました。
政治と経済と言いますが、この二つは決して離れて存在しているわけではありません。国と国との間の経済関係は、政治的な力関係、駆け引き、せめぎ合いの下に作られるのです。
中国はアメリカに経済外交でも様々な揺さぶりをかけている
中国はこの他にも対米経済問題で、様々な揺さぶりをかけています。例えば、2009年3月23日、中国人民銀行の周小川総裁は「国際通貨体制の改革に関する考察」と題する論文を発表しました。周論文が提案しているのは、米ドル一元支配から脱却し、国際通貨基金(IMF)のSDR(特別引き出し権)を新基軸通貨にするというもので、いわば米ドル支配への挑戦状です。この論文は人民銀行のホームページに公表されたのですが、中国語版より英語版の方が先に出されました。これは極めて異例なことで、この論文を世界に向けて発信するという挑発的パフォーマンスだと言えます。
そして実際、中国はロシアやブラジルとともに、SDR建てになる可能性が高いIMF債の購入を表明しています。SDRは米ドル・ユーロ・円・英ポンドの4通貨で構成する合成通貨単位で、SDR建ての運用を取り入れれば、当然その分、米ドル建ての運用は減ることになります。もちろん額は微々たるものですが、中国はこのように他のBRICs諸国とも連携して、米国に対し揺さぶりをかけているのです。
2009年、いずれの国家も採った為替政策
金融危機に端を発した世界同時不況という経済状況下では、中国に限らず世界各国が輸出競争力を保持し自国産業を守るため、自国通貨を安くしようとする為替政策を鮮明にしていました。
例えばアメリカもそうです。1ドル=100円近くまで円安が進んだ2009年3月2日の日本経済新聞は、「米、急速な円安に警戒感」「車産業など 為替対策求める声」「『日本車たたき』再燃も」という見出しで、米民主党や自動車業界を中心に、米政府に為替相場の修正に向けた対応を求める声が高まっていることを報じました。
ちなみに、当時、投資顧問会社の取締役として外貨建てヘッジファンドへの投資助言を行なうことを生業としていた筆者は、こういった報道を見て「100円を大きく超えることはないな」と判断し、2009年4月、1ドル=101円になったところでドル売りに動きました。結果的には、まさにそこが当面の円安・ドル高のピークでした。アメリカ側の声の高まりというのは為替予測にも役立つという一例です。
それにしても、日本企業の場合、「円高に悲鳴」を上げることはあっても、「為替相場の修正」を政府に求めるなどということはありません。政府に言えば為替相場を動かしてくれるか、そんなことはあり得ないか。懸命に生きている民間企業には現実が分かっているのです。
2009年は、中国やアメリカといった大国だけでなく、アジアの中小国も自国産業を守るためドル買いの為替政策を行ないました。2009年10月10日の日本経済新聞は「アジア相次ぎドル買い介入」「通貨、輸出力低下を懸念」という見出しで、韓国、台湾、タイ、フィリピンなどアジアの中小国の通貨当局が、こぞってドル買い、自国・地域通貨売りの介入を、繰り返し行なっていると伝えています。中小国といえども、自国産業を守るために、他国と摩擦が生じる恐れのある為替介入であっても、やる時にはやるのです。
「米国が提唱する」政策しか採れない日本
こうした各国と比べて、わが国はどうであったでしょうか? 2009年9月25日の日本経済新聞夕刊の記事を見て、筆者は絶望的な気持ちに陥りました。
日米財務相会談を伝えるこの記事の見出しは「日本、円安政策採らず」「内需拡大で成長探る」。記事によれば、藤井裕久財務相(当時)は、「(市場は)自由経済の牙城だ」と語ったとのことです。一見、崇高な理想を高らかに謳ったように見えますが、実のところは対米従属そのものでしょう。それは記事左上のまとめのところに如実に現れています。日米財務相会談の主な内容[経済政策]のところには次のように書かれています。「米国が提唱する内需中心の経済政策を進めることで一致」(下線筆者)。日本は世界の最先端を走って人口減少経済に突入したのです。そのわが国がなぜ「内需中心の経済政策」「内需拡大で成長探る」のでしょうか? 残念ながら、今世界で最も内需拡大が期待しづらいのがわが国ではないでしょうか?
筆者は今でもファイナンシャル・プランナーとして、地方で製造業を営む企業経営者の方のご相談を承っています。そういう時、彼らからしばしばこういった声を聞きます。「1ドル=80円台では中国に出て行くしかない。一旦覚悟して出て行って製造ラインを作り動かしたら、もし1ドル=120円になっても日本に戻って来れない」。こうして企業が中国に出て行けば、日本から雇用が失われ、中国に雇用が生まれます。そしてそれだけではなく、技術が中国に流出していきます。今、円安政策を採らなければ、技術はどんどん流出していき、わが国の国際競争力は一段と低下して貿易赤字に転落し、「もう円安でもいいや」とアメリカや中国が容認するようになって、ようやく円安になる。こういうシナリオは絵空事ではありません。だからこそ、まだ日本の技術に優位性があるうちに、断固たる意志で安定的な円安政策を採ってほしいと思うのですが……。
ちなみに筆者は、藤井財務相が「円安政策とらず」と発言をしたのには、かつての失敗体験も効いているのではないかと推察します。失敗体験とは、藤井氏が1993年から94年にかけて、細川内閣・羽田内閣で大蔵大臣を務めていた時の体験です。藤井氏はこの時1ドル=100円割れに迫る円高に対して2兆円ほどの介入を行なったのですが、功を奏さず円高を阻止できなかったのです。「為替はアメリカの思うようにしかならない。勝算のない無理なことは言わない」。鳩山内閣で財務相に就いた時すでに77歳、この会談から約3カ月後の翌年1月早々には体調不良で辞任することになる高齢な藤井財務相が、こういう心境だったとしても不思議ではないでしょう。
アメリカに対して主張すべき経済政策
先に述べた環境・健康・観光の三分野を中心とする民主党の「新成長戦略」。筆者は、それはそれで検討し実現できるものは実現していくことにやぶさかではありません。しかし、ますますグローバル化していく今日にあって、これだけではあまりに内向きではないでしょうか。既に世界の先頭を切って人口減少経済に突入したわが国が、こんな内向き志向で、このグローバル時代に勝てる、経済成長できるというのは、あまりにも甘い見通しだと言わざるを得ないのではないでしょうか。
筆者は、日本政府はオバマ大統領や上記のガイトナー財務長官に対し、以下のようにきちんと主張すべきではないかと考えています。
「オバマ大統領、ガイトナー長官、わが国は世界で最も早く人口減少経済に突入しました。内需拡大による経済成長に大きな期待はできません。ですから、今まだ国際競争力のある技術力で勝負して、成長する新興国をターゲットに経済成長戦略を考えねばなりません。そのためには、安定的な円安が不可欠です。為替が極端に円高になる恐れがある環境下では、わが国の企業はどんどん海外に出て行ってしまいます。95年の超円高以降、貴国(アメリカ)にも随分進出して、貴国の雇用拡大にも貢献してきたのはご存知でしょう。今後出て行くとすれば、中国やアジア諸国です。そうなれば、わが国産業界は益々空洞化し、雇用が失われるばかりでなく、技術まで新興国に流出していきます。空洞化した上に技術まで優位性を失えば、わが国経済は立ち行かなくなってしまいます。ですから、わが国は円安政策を採るほかありません。もしこのまま行けば、わが国は近い将来、貿易赤字が常態化します。その先には経常赤字が待ち受けています。そこまでの時間は決して長くはありません。そうなれば、わが国は今までは貴国の国債を安定的に買ってきたわけですが、それが不可能になるばかりか、本当に貴国の国債を売らなければならなくなります。世界経済の安定的な発展にとって、わが国と貴国の経済の連携と発展は必要不可欠のものと考えます。そのために、わが国の円安政策にご理解とご協力をいただきたい」。
現在、アメリカのオバマ政権は「5年で輸出倍増」計画を打ち出しています。もちろんその背景にはアメリカの巨額な貿易赤字、経常赤字があります。しかし、日本の貿易黒字ももうピークアウトしていることは紛れもない事実です(貿易黒字のピークは1992年度)。内需拡大に安易に期待できないのも事実であり、であれば日本政府が「輸出倍増」計画を打ち出してもいいはずです。……しかし、それはできない。摩擦を招きそうなことは言えないのでしょう。だから内向きになるしかないのです。
それにしても、日本は1980年代から一体どれほど、アメリカのご都合主義による「内需拡大」を要求されてきたでしょうか。それが日本のバブルを生んだ要因にすらなっているのに、それでもなお「米国が提唱する内需拡大」と言わなければならない……。
この対米関係の呪縛から脱却しなければ、日本はそれこそ経済面での「第二の敗戦」を避けることはできないのではないか。筆者はそれを大変危惧する者です。
日米通貨交渉の中に対米従属が見える
先にも述べましたように、筆者は外貨建てのヘッジファンドに関する投資助言業務を長く生業としてきました。当然「為替」の世界は、常にウォッチングしていなければなりませんでした。この世界ではよく「市場が決める」という言い方をします。実は筆者はその表現にずっと違和感を覚えてきました。本稿で繰り返し述べてきましたように、為替というのは国と国との経済関係に当たって最も重要なファクターであり、したがって当然各国の政策の対象となるものです。アメリカも中国もアジアの中小国も、みな為替政策を実行しています。為替は市場任せにしておいていいものではありません。ただ、こういう表現に違和感を覚えたと書きましたが、市場関係者がそう言うのはやむを得ないですし、妥当であるとも思います。筆者が極めて問題だと感じているのは、政府や経済政策担当者が、そのようなことを言うことに対してです。しかも、先に見てきましたように、「市場は自由経済の牙城だ」などと一見崇高な理想を語っているかのように。これはたちの悪いごまかしであると筆者は考えます。本当は「円安」と言いたくても言えない。否、もう言いたいという気持ちすら喪失してしまっているのではないか。どうせ無理なのだからと。筆者にはそう見えてしまいます(菅首相が「円安」と言えるのは、失礼ながらまだ厳しい状況に直面していないからのように思われます)。そして、それは一人筆者のみの見方ではありません。日米通貨交渉をずっとウォッチングしてきた者には、やはりその姿は見えているのです。
『日米通貨交渉 20年目の真実』(滝田洋一著・日本経済新聞社)は、1983年の日米円・ドル委員会から85年のプラザ合意、87年のルーブル合意、89~90年にかけての日米構造協議と続く日米通貨交渉の現場の姿を、関係者へのインタビューやコメントを交えて描いた400ページを超えるドキュメンタリーです。ここには、この間終始要求するアメリカ側と、そのアメリカに配慮していかに事を収めるかに汲々とする日本側の姿が描かれています。そして本文中に、その日米通貨交渉、日米関係の本質をサラリと書いてある部分があります。「日米が深刻に対立したように見えても、最後は日本側が妥協案を提示する。米国のドルと核の傘の下に日本が置かれた、戦後の日米関係を象徴する交渉パターンは、日米円・ドル委員会の協議でも忠実に繰り返された」。経済関係も国家間の関係であり、当然国家間の力関係が反映されます。戦後の日米関係とは、日本がアメリカのドルと核の傘の下にある主従関係であるため、本当の対立はあり得ず、必ず日本側が妥協する。そのパターンが、通貨交渉でも繰り返されたということです。取材を重ね日米通貨交渉の姿を明らかにした者には、その現実の姿が見えているのです。
対米従属国家から自立国家へ
戦後の日米関係とは実は主従関係であるが、それはどうしようもないことなので直視せず、従属下ゆえに飲まなければならない条件をさも崇高な理想のように主張する。これは国家間における経済のせめぎ合いの象徴、「為替」に関してだけの話ではありません。筆者は、かの「平和憲法」こそその筆頭ではないかと考えます。経済政策の面で対米従属を強いられるのは、国家として対米従属しているからにほかなりません。その日米関係を根本的に規定しているのは、いわゆる平和憲法と日米安保条約でしょう。現行憲法はその歴史的経緯から考えれば、その本質は平和憲法というより、アメリカが敵国日本の牙を抜き、それを固定化するための憲法だというのが妥当な見方でしょう。安保条約は、東西冷戦時代を迎え、憲法の非現実的部分を補うために締結されたものですから、アメリカがアメリカにとって必要な範囲内で在日米軍を駐留させ、一方的に日本を守るという性格の片務条約となっています。このように、憲法と安保の根本をよく見てみれば、それは国家の生存自体を自国の力によらずアメリカに委ねることを法的に縛ったものと言えるでしょう。戦後日本の対米従属構造を規定しているのは、この憲法と安保にあると考えます。
筆者は、こうした状態は望みません。私が人間として誰かに従属するのが嫌なのと同じように、わが祖国日本が対米従属の状態に置かれ、他国からも侮られていることは耐え難いことであると感じています。しかし筆者は同時に、今すぐその従属構造を根本から変えるのは残念ながら無理であろうとも考えています。今回筆者が提起した経済問題などを通じて、少しでも多くの方が対米従属の状態に屈辱を感じること。このままでは経済敗戦にまで至ってしまうのではないかという危機感を感じること。そして、政府に対し国家として強い態度で対外交渉に臨むことを求めるようになってくれれば、筆者としては問題提起した甲斐があったというものです。
今回の経済危機は、しばしば1930年代の大恐慌に擬せられました。その大恐慌のすさまじさはとても今回の比ではなく、わが国も2年連続2桁デフレにあえいでいました。その時、大蔵大臣に就いたのが高橋是清です。是清の大蔵大臣としての評価は高いものがありますが、最後に是清がどのような為替政策を採ったかについて簡単に述べて、本稿の筆をおきます。
1931年(昭和6年)12月、是清は5度目の蔵相の座に就くや、当日に金本位制から離脱して円を切り下げます。切り下げた円をどうしたかといいますと、その後イギリスの通貨ポンドと低位で固定(ペッグ)させます。この政策は輸出産業を潤し、景気回復を促しました(昨今の中国の為替政策を想起させます)。是清、最後の蔵相時代の1931年(昭和6年)12月から1936年(昭和11年)2月にかけて、わが国の実質成長率は7.2%、インフレ率は2%だったということです。かつてわが国が自立した国家であった頃、このような政治家がいてこのような政策を実行できていたのです。
再生日本21
執行役員 稻田雅彦
志塾四期生・ささやんです。
読ませていただきました。
さすが稲田さんですね。
そして、稲田さんらしい個性も十分感じました。
一番の問題はやはり日本が事実上、
アメリカの植民地と化していることだと思います。
まず日本人としての精神を自立させ、
それから目に見えるものを自立していく。
そのための方策として軍事をどうするか、ということだと思います。
「平和」というものをどう捉えるかで、決まってくるはずです。
現実か、理想か・・・。
今年もできる限り田舎から出て、
「人」に会って話を聞き、
勉学に励みながら、
自分のような者でもできることを探していきたいと思います。
論文、非常に参考になりました。
どうもありがとうございました。
これからもご指導よろしくお願いします。
投稿情報: ささやん | 2011年1 月 7日 (金) 06:21
ささやん、長~いのを読んで、しかもコメントまでしてくれてありがとう!
確かに戦後日本の一番の問題(構造的な問題)は、事実上アメリカの植民地化していると言っても過言ではない状態にあることだと思います。
僕は、まず、その戦後日本のスタートというのが、敗戦、占領という、日本が歴史上経験したことのなかった想像を絶するくらい過酷な状態からスタートしたのだということを、今一度確認し直す必要があるのではと思っています。
Wmodeにも書きましたが、明治維新と戦後の大転換を同列に並べる人がいますが、片や自らの手による懸命な富国強兵政策、片や戦勝国による敗戦国弱体化政策ですから、全く違います。
平和の問題に関しては、戦後の日本では「反戦」「平和」を唱えれば平和が来る、「軍事」を口にする者は好戦的、というような観念的平和主義(念仏平和主義)が瀰漫していますが、現実をしっかりとらえなければ何も生み出されはしないでしょう。反戦・平和イデオロギーに凝り固まった人たちは、往々にして平和的ではありません(かつては互いに殺しあう内ゲバまで引き起こしました)。人間や社会や国家の現実の中で、いかにいい形を作っていくかが、いつの時代の人間にも問われていることだと思います。
投稿情報: 稻田雅彦 | 2011年1 月14日 (金) 16:49