「龍馬エッセー(10)」
(6.21.2010 by Kouichi Hattori)
昨夜放映されたNHK大河ドラマ龍馬伝、そのタイトルは、寺田屋の母であった。寺田屋お登世、お龍のふたりは龍馬を語るに欠かせない人物である。お登世が大津の出身であったことを初めて知ったが、大津と聞いただけで親しみを感じてしまうのは同郷人としての誼だとおもう。龍馬12歳の時に実母の幸が亡くなったが、その母の面影をお登世は濃厚に持っていたとされる。「母上」、「龍馬」という会話が、たとえ一度でも実際に交わされたのか否かはむろん定かではない。しかし瞼に浮かぶ亡き母と瓜二つといってもいい人が眼前に現れたならば、龍馬ならずとも内心穏やかでなくなることは目に見えている。ぼくの祖母は、父を産んで七日後に亡くなっている。父にとって母は、瞼にさえ浮かばない想像の域をでない人である。父は80歳を超えた今も、その亡き母を偲ばせる一葉のモノクロ写真を大事にしまっている。父にとって母は、その写真に写った日本髪の姿だけである。抱きしめてはもらえなくとも、その穏やかな慈愛に満ちた表情がすべてなのだ。
ぼくの祖父は、ぼくが20歳の頃に亡くなった。生前おりにふれて語ったことは、亡き妻である祖母が、いまわの際に発した言葉であった。「どうか光雄をたのみます」、「わかった安心してや」、祖父は後妻をもらうことなく73歳の生涯を終えた。亡くなってからは40年もの歳月の隔てを取り払って、ふたりの戒名が刻まれた位牌に仲良く収まっている。ぼくは22歳のときから2年あまり、ふとした機縁で巡り会った勤務する銀行のほかの支店にいた、とある女性と真剣に交際していた。やがて結納を交わし、京都の下鴨で結婚式を挙げる準備も整いかけた矢先に、心にすきま風が吹き始めたのである。社会人になってから寸暇を惜しむように、人生を考えさせてくれるトルストイやショーロホフ、ドストエフスキーらのロシア文学に傾倒し始めたのであるが、ちょうどその頃ロシア映画「戦争と平和」が封切られ、ぼくらは週末のデートを梅田のロードショーと決めた。やがて結婚すれば、いずれ子どもができるだろうとは、まあ容易に想像できることだった。
「戦争と平和」前編の章で、アンドレー・ボルコンスキー公爵夫人が子どもを産んですぐに身罷り、そのときのアンドレー公爵の嘆きのシーンが描写された。最愛の妻を失い、半ば人生に希望を失い自棄になりかけていた侯爵は、その辛い過去からの逃避もしくは再起を期そうとして、モスクワ侵攻を企図したナポレオンとの露仏戦争に従軍する。舞踏会で出会い惹かれ合っていたナターシャへの思いを断ち切って……。映画の上映中、ぼくは侯爵夫妻やナターシャさらにはピエールら、一人ひとりの心の動きが気になりながらも、侯爵夫妻と母を喪った生後間もない遺児の姿が、祖父母と父の境遇とそっくりだったことに衝撃を受けた。鑑賞後に立ち寄った喫茶店で、婚約者が「あたし子どもを産むのが怖い、子どもを産めそうにないわ」、と洩らした言葉に二重の衝撃を受けた。彼女を深く愛していただけに、祖父母や父と同じ轍を踏むようになりかねない状況に耐えきれなかった。もしかすれば繰り返されかねない、我が一族の悲劇に怖じ気ざるを得なかったのである。
申しあげるまでもないが、子にとっての母、父母にとっての子とは、かけがえのないものである。この世にたったひとりしかいないのである。そうした愛する者との絆を、人生の道半ばにして断たれてしまった、祖父母や父の無念に想いを馳せればはせるだけ、個人的にも同じ思いを味わいたくなかったし、また身内の誰にも味合わせたくなかったのである。今回の龍馬エッセーは、龍馬とお登勢の関係を推測しているうちに、すっかり話が筆者の心象風景に飛んでしまった。龍馬の恋しい亡き母を慕いつづける心の隙間を埋めるかのごとく現れた、愛する母によく似た風貌のお登勢との出会い。母=お登勢が見守ってくれていると考えることで、さらに強く己を律して己のめざす目標に向かって突き進んでゆこうとするエネルギーが炸裂したのではなかったか。男が女によってブラッシュアップされることは真実であろう。龍馬からお登勢に宛てた手紙の多くが、彼女に頼み事や泣き草を聞いてもらうようなものが多いのは、一般的な母子関係に認められる男女の性の一端を示しているようで興味深い。
作家・コラムニスト 服部光一(はっとり・こういち)
寺田屋お登世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%99%BB%E5%8B%A2
お登勢(おとせ、文政12年(1829年)頃 - 明治10年(1877年)9月7日)は、幕末期の寺田屋の女将。大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。京都伏見の船宿である寺田屋第6代目の主人・寺田屋伊助の妻となったが、夫は放蕩者で経営を悪化させたうえ、酒を飲みすぎたために病に倒れて若死にし、以後は彼女が寺田屋の経営を取り仕切った。人の世話をすることが大好きだったことから、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされて、牢に入れかけられたこともある。文久3年(1863年)、寺田屋事件が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった後、薩摩藩からの見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたといわれている。その後は龍馬や尊皇攘夷の志士をたびたび匿ったといわれている。明治10年(1877年)、死去。龍馬が彼女に宛てた手紙の多くは、彼女に頼み事や泣き草を聞いてもらうようなものが多い。
楢崎龍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D
天保12年(1841年)、医師の楢崎将作の長女として京都で生まれた(または実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったとも)。父の将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、獄死している。このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うために京都の料理屋で働いていた。 しかし間もなく料理屋を辞めて天誅組残党の賂いとなる。しかし天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった。このとき坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られ恋仲となり、その後寺田屋に奉公することとなった。慶応2年(1866年)、薩長同盟の成立を悟った幕府の伏見奉行配下の捕り方によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸(実際は浴衣を着ていた)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる(寺田屋事件)。その直後に龍馬と結婚し、小松帯刀の誘いで薩摩藩の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の新婚旅行であったといわれている。慶応3年(1867年)、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいた為、難を逃れた。
寺田屋坂本龍馬襲撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林忠交肥後守の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の取り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦しながら乱闘になり、捕り方数名を殺傷するも、自らも左右手の親指を負傷して材木屋に隠れる。お龍は機転を効かせて伏見の薩摩藩邸(直線距離:約800m)に駆け込み、藩邸からは川船を出してもらい救出され九死に一生を得ることができた。藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けて、その後伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に匿われていたが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出させた。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、日本初の新婚旅行とされているが、何らその根拠はない。
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