再生日本21
「龍馬エッセー(15)」
(9.21.2010 by Kouichi Hattori)
「竜馬がゆく」司馬さんの小説だけでは、寺田屋事件における龍馬の負傷のほどを想像するのはなかなか難しい。大河ドラマ「龍馬傳」のリアリティに富む映像を視ながら、寺田屋事件で落命していてもおかしくない、凄い刀傷だったんだなと驚いてしまった。伏見薩摩藩邸における龍の献身的な介抱ぶりも、じつによくわかった。もちろん想像力を駆使して小説を読むのもいいが、想像力にはやはり映像によってしか得られない現界というものがある。それは薩摩の霧島連峰の高千穂峰にもいえることで、小生は薩摩の地に未だ足を踏み入れたことがない。もちろん映像や写真で目にしているだけだが、今回の大河ドラマを視たことによって、一度は足を運ばなければならないなという気持ちにさせられている。それなりに山は好きなので、なんとか機会を見つけて塩浸温泉や高千穂峰にも登ってみたい。霧島ロケシーンを視ているだけだと、山の険しさや厳しさが伝わってこない。
余談ながらも、事前に地図等で地形やコースを確認しておかないと、とんでもない思い違いを招くことがある。パンフレットやガイドブックには載っていないだけに危険がついてまわる。それは尾瀬の稀観ともよべるもので、まあ鳩待峠から尾瀬ヶ原をぬけ、尾瀬沼から沼山峠に至るコースならばよしとしても、出口を三平峠から大清水へおりた人ならば実感できるだろうことだ。尾瀬は周りを山に囲まれた、すり鉢の底であることを頭に入れず、平坦な尾瀬ヶ原の木道歩きだけをイメージしている人がいまだにいるようだ。崖道の大清水を、スーツに革靴あるいはスカートにハイヒールで歩かれている男女をみかけたと、つい先日行かれた知人が話しておられた。ミヤマキリシマツツジ、天の逆鉾、また雲海のかなたに錦江湾や桜島を眺めるのはよいが、1500メートルを超える山であることを忘れてはならない。大怪我をした龍馬と、お龍の新婚旅行は女人禁制の山だったのだ。
古来から女人禁制の山とされた所以は、それなりに実利的な意味合いがあったわけで、たんに古神道の穢れと祓えといった宗教思想に基づく事由だけではない。大切な子を産み育まねばならない大事な役割を負う女人を、山の危険性から護るという意味合いもあったのだ。けっして現代流の男女平等の理念に反す、差別意識から生じたものではないと断っておかねばなるまい。その女人禁制の山へ、お龍は男に扮して登ったのだ。ふれてはならぬはずの天の逆鉾を引っこ抜き、しかも龍馬は女人づれ。現代人でさえも、神代以来のタブー禁忌にふれることを怖ろしく感じるものであろう。祟りが怖いとかいう類のものである。たまたま案内人を含めても、三人程度の登山であったから黙認されたのであろうが、これが霧島講の一員としてのものであったならば許されなかったもしれない。薩摩や日向にまで、龍馬の追っ手が迫っていなかったことも幸いだったのだ。
作家・コラムニスト 服部光一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。
6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている。
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。
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