再生日本21
「龍馬エッセー(5)」
(4.13.2010 by Kouichi Hattori)
4.12.2009ビッグニュースが飛びこんできた。長州萩に滞在中の龍馬に、直後の脱藩を決意させたといわれる人物が、吉田松陰門下生の久坂玄瑞(くさか・げんずい)である。その久坂から武市瑞山(たけち・ずいざん)に宛てた1.21.1862(文久2年)付け書簡が発見されたというのだ。その書簡を長州から土佐まで託され携行した人物が、ほかならぬ龍馬本人である。土佐山内家宝物資料館の収蔵資料から、その書簡が昨日発見されたというのも驚天動地であるものの、八方ふさがり閉塞感で息苦しい時代を反映するかのごとく、ときはいまふたたび龍馬の志を受け継ぐ、第二第三の龍馬の出現を待ちわびているのだ。土佐勤王党を主宰した武市瑞山こと半平太に宛てた、志士の決起を促す内容だという。「尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」「大名や公家は頼れない」「草莽(そうもう)の志士が義挙するほかに策はない」が、おおまかな文意だという。
武市の使者として長州を訪ねてきた龍馬を「坂本君」と呼び、「腹を割って話し合ったので、しっかり聞き取って熟考してください」と、自分の思いを龍馬から聞くよう頼んでいるという。龍馬の大器たる人間を見抜いた武市も立派だが、武市の使者として長州に出向いた萩滞在中に、肝胆相照らすまで腹を割って話し合った末に、武市宛の書簡を託した久坂も偉い人物である。大器は大器を知るということであろうか。交通至便な世の中にはなった、新幹線や航空機を利用すれば日本全国日帰りすらできる。幕末ほとんどの人々が徒歩だった時代に、頼れるものは己の健脚のみ。龍馬にしろ西郷にしろ、あるいは吉田松陰にしろ、とにかく歩いている。とりわけ松蔭は、国土の見聞視察のために全国を行脚したというから恐れ入る。いつの世も人は人から感化される、交通通信いたって便利な世の中にはなっているが、バーチャルとリアルはちがう。現実の出会いからすべては始まる。
龍馬に託した手紙「藩が滅亡しても大義なれば」
4.12.2009配信・読売新聞
坂本龍馬が長州を訪れた際に尊皇攘夷(じょうい)の志士・久坂玄瑞(くさかげんずい)に託され、土佐へ持ち帰った手紙が、土佐山内家宝物資料館(高知市)の収蔵資料から見つかり、同館が12日、報道陣に公開した。土佐勤王党を主宰した武市瑞山(たけちずいざん)にあてて志士の決起を促す内容で、大義のためなら藩が滅んでもいいという持論の部分を大きな字で強調している。龍馬も久坂の影響を受け、帰郷直後に脱藩しており、明治維新前の緊迫した情勢を伝える文面だ。手紙は1862年(文久2年)1月21日付。久坂が武市に「大名や公家は頼れない」「草莽(そうもう)の志士が義挙するほかに策はない」と諭し、目立つ字体で「尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」とつづっている。武市の使者として長州を訪ねてきた龍馬を「坂本君」と呼び、「腹を割って話し合ったので、しっかり聞き取って熟考してください」と、自分の思いを龍馬から聞くよう頼んでいる。手紙は昭和初期以降、行方不明だったが、同館で今年1月に見つかり、字体などが判明した。23日~6月27日、高知県立文学館(高知市)で公開する。木村幸比古・霊山歴史館学芸課長の話「まず藩論を勤王で統一すると主張する武市に対し、久坂は一刻も早く藩を超えて志士が連携すべきだと説いたのだろう。龍馬も、この久坂との出会いで感化され、脱藩を決意したと考えられる」
まさに今、政界で起こっているようなことですね。
党派(江戸時代でいうところの「藩」にやや近いか・・・)を超えて、日本国のために政治家は立ち上がってほしい。
そのために、一人ひとりが「何ができるか」ということだと思います。
まずは、自らの損得で動かず、そのことが正しいか正しくないかで判断するという価値基準を持つことですね。
投稿情報: 佐々木 清行 | 2010年5 月 4日 (火) 03:19