「龍馬エッセー(7)」
(5.20.2010 by Kouichi Hattori)
司馬遼太郎さんの長編『竜馬がゆく』のエンディングは、越前に三岡八郎(のちの由利公正)を訪ねて行くシーンで終わっている。河原町三条下ルにあった土佐藩邸を出発したのだろうか、鴨川を渡り山科から逢坂山を越えると東海道は近江国に入る。鈴鹿峠や伊勢国にむかう東海道から分かれ、北国へむかう中仙道の起点である追分の道標は、本陣のあった草津宿である。龍馬は左中仙道へと道をたどり、やがて右前方に近江富士と称される三上山(みかみ・やま)の秀麗な山容を眺めるところまでだ。ちょうど守山宿のあたりであろう。そのあと龍馬は、数日がかりで越前福井に到着し、名君として名高い藩主であり徳川幕府の政事総裁職でもあった松平春嶽および懐刀だった横井小楠、三岡八郎らと会談する。龍馬に勝海舟との出会いを薦めたのも春嶽であり、神戸海軍操練所の開設にあたり5千両(1両ほぼ20万円×5000=10億円)もの大金を出資したのも春嶽だった。この春嶽とは、いったい何ものぞ、その素朴な疑問に答えるかたちで記されたコラムが、北海道龍馬会のHPに掲載されていたので、のちほど全文を転載させて頂きたい。
龍馬がタイムリーに出会った、志を等しくする人との出会いの数々、そのために龍馬は骨身を惜しまず全国を行脚しつづけた。その熱意たるや常人の及ぶところではない。それこそが偉人の偉人たるゆえんでもあろう。かりにもせよ風光明媚な地を歩んでいても、観光のかの字も行楽のこの字も見いだしがたい。脳裏にはこれからどうするのかという戦略と戦術のみが、とぐろを巻いていたといって過言ではない。それは幕末から見た近未来戦略や戦術であって、われわれは唯たんに偉人龍馬を追想しているだけではいけないのだ。龍馬が現代に生きていたら、どのような戦略と戦術をもって困難を切り開いてゆこうとするかを考えあぐねなければならないのだ。現代社会においても、われわれが知らない勝海舟や松平春嶽らがいるはずである。そうした人物に出会い、たがいの命をかけて心底からホンネで語り合うことで、たがいに共感し行動できうるチームワークをつくることが大切なのだ。ひとりではなにもできない、人間的魅力総合力がなければ人はついてこない。竹林の七賢人ずらして、酒を友に世を愚痴るだけで生涯を終えてしまうだろう。
北海道龍馬会 http://hokkaidoryoma.com/?p=138
松平春嶽と坂本龍馬 その1
10.1. 2008「衆言を聴いて」が春嶽の信条
奥田静夫
筆者の郷里は福井県である。北海道龍馬会入会を機に、越前福井藩の松平春嶽と坂本龍馬のかかわりについて紹介したい。松平春嶽は文政11年(1828)9月、徳川御三卿の田安家3代斉匡の八男として、江戸城内の田安邸で生まれた。父の斉匡は、第11代将軍徳川家斉の弟であり、母の礼以子は、閑宮家司木村政辰の娘であった。幼名を錦之丞、元服後の名を慶永といったが、彼が生涯最も愛用したのは「春嶽」という号であった。本稿では春嶽の呼び名で統一する。田安家は初代宗武以来、国学に励むなどの伝統があったが、春嶽は幼いころから学問を好み、父斉匡から「羊のように紙を好む」と評されたほどであった。春嶽の学問好きは一生続き、幕末の諸大名の中で彼ほど多くの記録を残した人はいないといわれる。天保9年(1838)9月、春嶽はわずか11歳で越前福井藩(32万石)の第16代藩主となった。これは前藩主松平斉善の病没に伴い、養継子として同家を継いだものであった。春嶽は江戸橋(東京・大手町)の福井藩邸に移り住み、中根雪江らの重臣に迎えられて藩政に取り組むことになった。このころの福井藩は、飢饉の影響などで財政が苦しく、領民の生活も窮乏していた。中根や近習の浅井政昭らはこの幼君の資質に大きな期待を抱いてその教育に心血を注ぎ、ときには少しもはばかることなく直言した。春嶽も周囲の期待に応えて厳しく身を律し、よく諫言を聞き入れ、諫言書を一包みにして生涯大事に所持したという。天保14年(1843)、14歳のとき、水戸徳川藩主を訪ね、藩主の心得について教えを請うた。その熱意に感銘を受けた斉昭は、自分の考えを長文の手紙にしたため、春嶽に届けている。その後、福井に入国すると、頻繁に領内を巡回し、庶民の生活に直接触れた。ある日、南条郡の鄙びた村を訪れたとき、道端にひれふしている老婆に向かい、毎日の食事について尋ねたところ、菜雑炊と稗団子を食べていると答えたので、これを作らせて試食してみた。しかし「難渋至極」、つまりのどに通るしろものではなかったという。こうした巡回の経験が、のちに福井藩論を特色づける「民富めば国富む」(民冨論)という考え方を育てた。春嶽が藩重臣の人事などで主導的な役割を果たすようになったのは、17、18歳のころからであった。弘化2年(1845)5月、鈴木主税を頭取の要職に抜擢して藩政の中核に据え、守旧派の家老岡部左膳らを解任するとともに、橋本左内、三岡石五郎(のちの由利公正)らの革新的な家臣をどしどし登用した。こうして新進気鋭の「改革派」家臣団グループが誕生し、春嶽は彼らを含め、多くの人々の意見を聴くことに意を用いた。「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」という言葉が、春嶽の詩幅として残されている。のちの龍馬との出会いも、このよい例としてあげられている。春嶽は藩政全般にわたる経費節減につとめ、家臣の禄高を半減したりした。その一方で藩領の沿岸警備のため、洋式大砲の製造や台場(砲台)の構築などにも力を注いだ。(続く)
越前藩を立て直した松平春嶽
http://blog.goo.ne.jp/ushiki111/e/c39a0c3b73162af7bd42b06d18de658c
幕末の雄藩といえば薩長土肥が有名であるが、徳川の親藩・越前藩も松平春嶽という名君によって藩の建て直しが成功している。土佐勤皇党であった坂本龍馬は開国論者・勝海舟に会いに行き(当初暗殺が目的であった)歴史は大きく動きたが、そのきっかけは松平春嶽にあるという。坂本龍馬は最初、春嶽に会い勝を紹介された。郷士の階級の人間が越前の殿様に会えるということは江戸中期では考えられないことであるが、国を思う優秀な人材には身分の壁を飛び越えて接する姿勢が春嶽にはあった。後に勝海舟が神戸に海軍操練所を造ったときに、坂本龍馬を越前藩に使者として送り運営資金の調達を行っている。このとき海軍の育成の重要性を理解した春嶽は5000両をだした。これは春嶽の軍師・横井小楠のアドバイスでもあり、また同志として越前藩士・由利公正を龍馬に紹介している。由利公正も横井とともに越前藩の財政立て直しを行った人物で、龍馬は新政府の財政立て直しを懸念して由利公正に相談を持ちかけている。坂本龍馬が近江屋において暗殺され、王政復古後由利は新政府に招かれて財政を担当したが、このときに坂本龍馬の船中八策を整理し、新政府の根本方針としたのである。五箇条の御誓文がそれである。
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