再生日本21
「龍馬エッセー(8)」
(5.28.2010 by Kouichi Hattori)
昭和43年(1968)錦秋、ぼくは高校2年生だった。そのころ関西地区の高校修学旅行先は多くが中九州であり、夕刻に神戸から関西汽船で瀬戸内海を別府へ向かった。たわいもない話がつづくが、そのころのぼくは同じ高校に通う同級生のマドンナに恋をしていた。修学旅行の前におもいきって告白すると、マドンナもぼくのことが好きだというではないか、しまったしまったシマクラチヨコ・・・。(恋とは惚れさせ、かつ告白させないといけないのだ。)たちまちにして、ぼくの心は舞いあがりプラトニックながらも、まるで修学旅行が新婚旅行のような気分に浸れたものだった。深夜にはふたりで汽船のデッキに出て、たがいの頬のほてりを鎮めようと潮の流れがはやい来島海峡の風にも吹かれた。翌朝、別府の地獄温泉や高崎山の猿を見物、やまなみハイウェーを観光バスで阿蘇外輪山を経由して熊本城へ向かった。天草から雲仙そして西海橋をわたって、ようやく長崎に着いた。おお、ここが長崎か~。
そのころすでにグラバー邸は一般公開されていた。いまの今までグラバーについて、成功したヨーロッパ出身の年老いた武器商人のイメージ以外に、さしたる知識もなかった。そのときもおそらく観光ガイドが、グラバーについてひととおりの説明をされたのだろうが、ぼくはほとんど上の空で聴いていたと思う、恋するマドンナのしぐさや表情だけは鮮明に覚えていても、残念ながらグラバー爺?(じっさいは20代)に関してはまったく記憶にないのだ。なるほど舞鶴と同じような天然の良好だわい、と長崎湾の奥深い入り江の風光をながめ、三菱長崎造船所ドックから轟くクレーンの音を聞いていたのだろう。龍馬たちの亀山社中蹟はコースになく、あと記憶に残る風光は大浦天主堂、平和祈念像、外人墓地、オランダ坂、石畳の坂道、それらは昭和時代にヒットした藤山一郎「長崎の鐘」春日八郎「長崎の女」クールファイブ「長崎は今日も雨だった」といった歌謡曲の域を脱しないものだった。
人生は長いようで短い、馬齢をおもいきり加えただけでやがて迎えることになる還暦。ゾッとするがしかたがない、九州への修学旅行そのときからの人生いろいろあって42年が過ぎてしまう。光陰矢のごとしとは、過去をふり返って納得するものだ。龍馬には、乙女姉のほかに寺田屋お登世、お龍、千葉佐奈、平井加尾らがいたという。貧乏が極まり先祖伝来の郷士株を人に売って、幕末の土佐で地下人になっていた鳥籠売りの岩崎弥太郎には、喜勢というもったいなさすぎるくらいの恋女房がいたらしい。肥溜めに落ちていた糞まみれの弥太郎を、運をつかむひとだと見抜いて喜勢は嫁いだというが、ことの史実はともかくとして、いつの時代もどんな女なり男をつかむかで、その後の人生は大きく変わってしまう。近未来の現代人に押し寄せる貧乏という逆境に耐える力、そして女には愛する男がめざしている成功のために、どこまで孤独な閨房に耐えられるか否かで、まちがいなく女の人生は変わりうる。恋愛と結婚とはまったくちがう。
なお、蛇足ながらももうひとこと、けっして若いときの恋愛相手とは再会などしないほうがいい。若いときの綺麗なイメージが壊れるだけであり、まさか焼けぼっくいに火はつかずとも、おそらくろくなことにはならないだろう。青春の綺麗なイメージは、心にしまったままで墓場へもってゆくものだと考える。おたがいの老醜をみてげんなりするのがおちだ。33歳の若さで逝った龍馬は永遠の青春であり、50歳で逝った弥太郎もまだいい、亡くなったZardの坂井泉水さんだって、亡くなる歳までに語り継がれるだけの実績を残したのだ。ところが個々の人生は百人百様、けっして死に急ぐことはない。90歳になってから周の宰相として文王・武王に見いだされた、六韜三略を著した太公望呂尚だっている。あんたのふんどしを洗ったり飯を炊くのはもうこりごり、と呂尚87歳のおりに離縁を申し出た妻がいた。太公望の出世後に復縁を迫るも、覆水盆に返らずをしれっとやってのけられた。人生先々のことが見えないからこそ、不安ながらも楽しいのかもしれない。
以下、トーマス・グラバーについて記されたウィキペディアと興味深いブログがあったので、いささか長文ながらも、ともに全文転載させていただきたい。
★トーマス・ブレーク・グラバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%BC
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月13日)は幕末に活躍した死の商人で、明治以降は高島炭鉱の経営に当たる。もともと武器商人であるが蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街・長崎の基礎をつくった。スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5番目として生まれる。ギムナジウムを卒業。1859年、上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店(グラバーの肩書きは、「マセソン商会・長崎代理人」)として「グラバー商会」を設立。貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。亀山社中とも取引。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。1865年(慶応元年)には、大浦海岸において日本で初めて蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を製造して本業にも力を注ぎ、1868年(明治元)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島町の高島炭鉱開発に着手。また、長崎の小菅に船工場(史跡)を作っている。明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。トーマス自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。また彼は太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。私生活では五代友厚の紹介で日本人の談川ツルと結婚し長女・ハナ、長男・倉場富三郎(Thomas Albert Glover、グラバー→倉場)が誕生する(ツル以前に内縁の広沢園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人としては初めて勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。妻のツルとともに埋葬されており、息子の富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在長崎の観光名所となっている。トーマスはスコットランド系フリーメイソンリー(フリーメイソン)といわれるが、根拠はない。邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものを1966年(昭和41年)に寄贈され、移設したものである。なお日本のフリーメーソン設立(横浜ロッジ)も1866年(慶応2年)といわれ(薩長同盟もこの年)可能性は否定出来ない。
★明治維新とはなんだったのか:トーマス・グラバーについて
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408220000/
明治維新の正しい理解をしてみようと思います。明治維新最大の黒幕は、長崎にあるグラバー邸の持ち主トーマス・ブレーク・グラバーでした。死の商人グラバーです。グラバーの背後にはアヘン戦争の仕掛け人の大商社、ジャーディン・マセソン商会がいました。つまり、ロスチャイルド→ジャーディン・マセソン→トーマス・グラバーという構図です。ロンドン→上海→長崎です。坂本竜馬が仲介したと言われる薩摩・長州連合だけでは倒幕は無理です。グラバーの目的(使命)は倒幕(明治維新)と軍事物資(武器)の供給です。グラバーは、スコットランドのフレイザーバラに1838年6月6日生まれました。グラバーが11歳のとき、一家はアバディーンに移ります。父は英国海軍大尉(イングランド人)、母はスコットランド人です。父トーマス・ベリー・グラバーは、退官したあとアバディーンで造船業をはじめます。1859年9月19日、21歳のグラバーが長崎にやってきます。グラバーは25歳のときにあのグラバー邸を完成させました。長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、亀山社中・海援隊の坂本竜馬、三菱(土佐商会)の岩崎弥太郎らを代表とする幕末から明治にかけて活躍した人物が続々とグラバー邸を訪れます。グラバー邸には隠し部屋がありました。1863年5月には長州の伊藤や井上などの5人が密かにヨーロッパに旅立っています。さらに1865年には薩摩の五代友厚ら17人がヨーロッパに密航しています。上海にもたびたび長州の藩士らが出国しています。これらはすべてグラバー(ジャーディン・マセソン)が手引しています。竜馬は1865年5月に亀山社中を設立しましたが、8月には亀山社中を通じてグラバーから第1回目の買いつけ商品である7800挺の銃が社中に入荷しています。ジャーディン・マセソンの信用(状)を通じてグラバー商会が武器弾薬を極東に用意(買い付け)し、それを薩摩藩に売りつけます。つまり、その仲介役が竜馬の亀山社中・海援隊だったわけです。竜馬はグラバーの隠れ蓑です。グラバーは竜馬の利用して幕府の目をごまかしたのです。もっと言えば、竜馬はエージェントだったのです。薩長同盟の成立は1866年です。一般的には竜馬がこの薩長同盟を成立させたと言われていますが、グラバーは、薩長同盟成立前に既に薩摩や長州の人間をイギリスに密航させているのです。竜馬も密航していた可能性があります(証拠はありません)。竜馬の背後にはつねにグラバーがいるのです。薩長同盟は軍事同盟です。グラバーがいなければ薩長同盟などありえないのです。そして、倒幕という革命は、英国(もしくはグラバーとその背後の勢力)なくして成功しないのです。英国大使ハリー・パークスも薩摩の後ろ盾になります。「私がパークスと薩摩、長州の両藩の間にあった壁を壊してやった。これがわたしの1番の手柄だ」これは、グラバーの言葉です。そうです、グラバーが薩長の真の仲介者なのです。表に立てないグラバーがその代わりに竜馬を表に立たせたのだろうと思います。事実、薩摩と長州の集会所は、グラバー商会でした。グラバー商会は、ロイズ保険、香港上海銀行等の代理店でもありました。竜馬は突然、倒幕派から公武合体派に変わります。おそらく、自分が英国(グラバーの背後)の大きな陰謀に利用されていたことに気付いたからだろうと、わたしは思います。で、1867年の竜馬暗殺です。暗殺の実行犯はわかっていませんが、動機から考えておそらく実行犯は薩長でしょう。しかし、暗殺の背後にいたのは、これもまたグラバーでしょう。いや、もうひとり怪しい人物がいます。こいつが1番怪しい。岩崎弥太郎です。ご存知、三菱財閥の創始者です。竜馬の利権を受け継いだのが、岩崎です。岩崎とグラバーの関係が三菱財閥を創ったと言っても言い過ぎではないでしょう。三菱造船所の前身となるドックをつくったのはグラバーです。造船や船会社にかかせない保険、グラバーはロイズ保険(ロスチャイルド)の日本代表です。三菱のビール会社であるキリンビールを立ち上げたのもグラバーでした。三菱はグラバー邸を買い取って地元で集めたグラバーにまつわる文献・資料を封印してしまい、三菱とグラバーの関係を闇に葬り去りました。これが、グラバーに関する資料が極端に少ない理由のひとつです。現在の三菱財閥の基礎はグラバーにある。書き忘れたのでここに書いておきますが、グラバーは上海から1859年9月16日に日本へ向けて出航します。上海にはグラバーの父も一緒にいました。ですが、父は日本ではなくアバディーン(造船業)へと戻ります。グラバーは軍艦や蒸気船、艦船を薩長などの各藩へ売りまくりましたね。親子の動きも一致していたのです。グラバーは幕府の人間ともつながっていました(つながっていたはずです)。徳川側近の西周です。西はフリーメーソンでした。グラバーもメーソン(西とロッジは違います)ですから、西から幕府の情報を仕入れていた可能性が高いのです。まあ、これはあくまでも可能性です。…が、西の所属するロッジ(オランダのラ・ベルトゥ・ロッジNo.7)から間接的にグラバーへと情報が流れていた可能性の方が高いのかも知れません。フランス革命やアメリカ独立運動(建国)に深く関与したメーソンが、日本の革命である明治維新に関与していないと考える方が無理があります。…わたしには、ですけど。グラバーの支配は維新後も続きます。大日本帝国の支配者(支配人)はグラバーです。日清戦争、日露戦争におけるグラバーの活躍も大きかったのですが、それよりも明治時代の元勲のほとんどはグラバーがヨーロッパへと密航させたグラバーの教育を受けた顔ぶれなのです。みんな長崎のグラバー邸にも通っていました。グラバーは東京へと居を移し、三菱の中に溶け込みます。三菱は、グラバーから資本主義を学んだのです。グラバーが日本に資本主義を植えつけたんだと、わたしは見ています。現在の三菱はグラバーの三菱なんです。資本主義と戦争はセットです。資本主義が世界中の富を略奪しています。三菱は日本の企業ではありますが、グラバーによって成長させられた西洋の意思を持つ企業なんです。もちろん、三菱の従業員はそんなこと知りません。資本主義のレールに乗せられた日本は、どんなときも国際金融の動きには逆らえないのです。明治維新という革命によって、日本はすでに乗っ取られたのです。あとは彼らは見えないところに姿を消せばいいのです。すべて日本人の意思で動いていると思わせればいいのです。日本人の力で世界第2位の経済大国になったんだと思わせればいいのです。事実は違うのです。米国が輸入してくれるからこそ日本は輸出大国となれたのです。現在は、その計画の収獲段階だと思っています。日本のこの不景気だってすべて演出されたものです。インフレやデフレは自然現象ではありません。意図的に起こされているんです。経済学では教わらない彼らだけの金融学によって。わたしには、これからの日本はもっともっと悲惨な状況になっていくと見えます。グラバーの意思は現在も生きているんです。グラバーはどこかから日本を見て笑っているかも知れません。「太った日本をこれからゆっくりと食べさせてもらうよ…」とね。明治政府も現在の政府も、国際金融資本に操られていた(いる)ことは、疑問の余地がないと思っています。米国からはペリーが来ていました。ペリーが日本をこじ開け、そこへグラバーがやってきたのです。グラバーは現在も笑っている……。
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