再生日本21
「龍馬エッセー(11)」
(7.07.2010 by Kouichi Hattori)
フィクションとノンフィクション、また歴史小説と歴史学のはざまで、歴史上の人物にたいする現代人の評価も左右に揺れ動く。龍馬本人また同時代を共に生きた人にたいする、後生の人々の想いや評価も時代とともに変化する。小説では、龍馬への愛を貫き、その生涯を通して独身だったとされてきた千葉さな。その彼女が結婚していたと伝える明治時代の新聞記事が先日見つかったようである。大河ドラマ龍馬伝の影響もあって、千葉さなへの関心が高まっている折りだからこそ、こうした新資料が発見されもするのだろう。甲府にある、さなの墓にお参りする人が絶えないともいう。その墓石には坂本龍馬室とあるようで、短いながらも一時は結婚していた「さな」ではあったが、さなにとって龍馬は終生忘れえぬ人であったようだ。
あいてが男であろうが女であろうが、龍馬と出会った人たちはそれぞれが、龍馬がもつ人間的魅力に引きこまれてしまったことだけは疑いようがない。幕末そして維新を生きた人々が、こぞって龍馬の人柄に惚れていたからこそ、蛤御門の変以来犬猿の仲だった薩長をとりもち、同盟の盟約を交わすことができ、その盟約書に「龍」の裏書きを記すこともできたのだろう。薩長同盟は龍馬なしには果たし得なかったであろうし、暗殺された吉田東洋の甥であった、若き土佐藩の重鎮・後藤象二郎を味方に引き入れることによって、大政奉還や船中八策も日の目を見たのだろう。日本を、いまいちど洗濯し、動かすというのは、言うに易く行うに難しそのものである。現代政治における政権政党の周章狼狽ぶりをみていても、そのことがじつによくわかる。
我のほか皆師の心境で、とことん人の卓見に耳を傾けつくし、その卓見を龍馬は自分の心のなかで総合化できた。龍馬が優れていたのは独創力ではなく、師それぞれが抱いている卓見を総合化できる能力にあった。たとえば神戸海運操練所閉鎖による塾生たちの身の振り方一つにしても、それを案じた勝海舟、西郷隆盛、小松帯刀らとの交友があったからこそ、龍馬に神戸の塾生らを取り込んだ亀山社中を興させることになったのだ。龍馬を語るにはずせない大黒柱としてのノンフィクション、史実があってこそのフィクション歴史小説であり、たとえ今後どのような龍馬関連新資料が発見されようが、龍馬にたいする基本的な評価はすでに定まっているとみなすことができる。千葉さなが結婚していたといっても、それで龍馬評が変わることはない。
作家・コラムニスト 服部光一(はっとり・こういち)
坂本竜馬の婚約者、千葉さなが結婚?2010.7.3 14:08 MSN
坂本竜馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉さな(1838~96年)が、竜馬の死後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、3日までに見つかった。旧鳥取藩の文書から藩士の実在が確認されるなど、発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「記事はかなり正確」としている。故司馬遼太郎氏のコラムなどから独身説が広く知られているが、記事は通説を覆すことになりそうだ。さなは「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟定吉の娘。江戸の剣術修行で千葉一門に入門した竜馬は、さなと知り合い婚約したとされている。記事は明治3年(1871年)に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が1903年8~11月に連載した「千葉の名灸(きゅう)」。さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれた。10月4~5日の記事によると、明治6年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、竜馬の七回忌も済んだことから受諾した。しかし家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて竜馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒ってさなを切ろうとしたため、近くの商家が仲裁に入り、翌年7月に結婚した。菊次郎の身持ちの悪さなどから、10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。あさくらさんは鳥取藩主の伝記などから菊次郎の名前や当時、横浜在住だったことを割り出し、横浜市史の関連文書から商家の存在を確認。さなの横浜時代の戸籍などは関東大震災や戦災で焼失している。さなの関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事だ。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」と話している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E3%81%95%E3%81%AA%E5%AD%90
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女である。北辰一刀流小太刀免許皆伝。長刀師範。学習院女子部舎監。漢字では佐那と呼ばれるが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。また、初名を乙女といった。小太刀に優れ、10代の頃に早くも皆伝の腕前に達したと言う。美貌で知られ、「千葉の鬼小町」、あるいは、「小千葉小町」と呼ばれたと言う。のちに坂本龍馬と知り合い、婚約を交したという。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられるが、元鳥取藩士と一時期結婚していたとする新聞記事が2010年に発見された。宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録をまとめた「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」(宇和島伊達文化保存会蔵)には安政3年(1856年)に19歳だった佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されている。また「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っている。維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、千住で家伝の針灸を生業としてすごした。死後、東京谷中で土葬されたが、身寄りがなく無縁仏になるところ、山梨県の民権運動家として知られる小田切謙明の妻、豊次が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の日蓮宗妙清山清運寺に納骨されたという。墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。
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