再生日本21
「龍馬エッセー(18)」
(12.09.2010 by Kouichi Hattori)
ついさっきまでYahoo!の四国詳細地図に見入っていた。四国八十八カ所霊場巡りは、阿波1番札所から伊予59番札所まで済ませているのだが、そのときに眺めた霊場ルート沿いの風光を懐かしく思い出している。そのときの興味と関心しだいで、いかにルート沿いの有名な旧居旧跡であろうがついつい黙殺してしまい、たんに通過してしまっただけのことも多々あったようだ。あのときに、ちょっと立ち寄るだけで良かったのにと思った処は、北川村の中岡慎太郎誕生地、安芸市井ノ口の岩崎弥太郎誕生地、高知市五台山麓の武市瑞山誕生地である。阿波から海岸沿いのルートを室戸岬まで行き、そこで中岡慎太郎の銅像を見上げた。札所の参詣と空海が修行したという洞窟を訪ねた後に、左手に海を見ながら海岸沿いを高知市に向かって走る。やがて土佐くろしお鉄道の終点奈半利駅に着く。
奈半利駅ロータリーにある鮮魚店に入った後で、観光案内板を見ると北川村中岡慎太郎生家と記されているが、なぜか徳島の方へむかって山間部を戻ろうとする気がおこらず、そのまま高知方面へ向かう。安芸市街地を走っていて見つけたガソリンスタンドで給油、見上げる道路標識には岩崎弥太郎生家→と記されているが、なぜかそこも無視して直進。そのときは霊場巡りがメインであって、つぎなる南国市の国分寺に行くことばかりを考えている。郊外の水田地帯にある霊場参詣の際に、すぐ傍に土佐守紀貫之が政務を執った国衙があったことを知る。龍馬空港のある海沿いのバイパスを走り浦戸大橋を渡って桂浜。さすがに丘に聳える龍馬像だけは見上げた、しかしその後は龍馬記念館へ立ち寄ることもなく、浜辺を歩いて龍神祠の岩場までを往復する。つぎは五台山の霊場竹林寺である。
五台山へ登る道路を見つけようと、山麓の住宅地をうろうろするうちに、武市瑞山生家の標識が目にはいるがそれもパス。高知市内にいくつかある霊場を巡っているうちには、長宗我部元親の墓とやらの案内板も目にはいるがそれも無視。朱塗りのはりまや橋を一目見ようと市街地を市電と併行して走り、高知駅前のホテルでその夜は宿泊。藁で炙った鰹のたたきを食したものの、しかしながら龍馬生家跡の石碑や平井加尾がいたという店舗跡は行かずじまい。写真で見る高知城はもっと高い山の上にあるとばかり想っていたが、平城に毛が生えたような佇まい。その翌朝は、脇目もふらずに西の土佐市の霊場に向かう。青龍寺の参詣を終えると、横綱朝青龍がいたという明徳高校の寄宿舎を横目にしながら須崎へ向かう。そこから足摺岬までは遠かった。たどりついた岬で見たのが中浜万次郎像。
大きな像を見上げ、銅板に記されている由緒書きに目を留める。そこから宿毛市や伊予の宇和島までは海岸線を走ったために、梼原町にある維新の門や伊予越え龍馬らの脱藩道などは走行ルート外であった。宇和島を過ぎてから高速道に乗り、途中から久万高原の山中深い霊場岩屋寺へむかったのだ。縁がないというのは、こんなものだ。しょせんは幕末の志士たちの足元にも近寄れない、小器の小器たる土佐巡礼であっただけにやむを得まい。お粗末お粗末。ついでに申せば江戸の京橋桶町、千葉定吉道場跡の近傍で8年間も働いていたが、その頃はまったくもって知らぬ存ぜぬの世界であった。山手線外側の鶯谷から日暮里にかけて根岸がある。そこに子規庵があったことも、また上野不忍池の池之端に岩崎邸があったことも、本郷菊坂に一葉寓居があったことも、京橋と同じく知らなかった。
袖振り合うも多生の縁、それすらなかった無知からくる無関心は寂しいかぎりだ。こんど出かけるときには、傍まで行きながらも訪ね得なかった処を巡礼気分で旅してみたい。
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