南国土佐を根拠地にしていた四国の雄藩・長宗我部家が、関ヶ原の合戦で参画していた西軍勢力がもしも勝利していたら、合戦後に行われた家康による論功行賞としての山内一豊の土佐入りもなかった。よそ者である一豊とその家臣団のみが上士であり、旧長宗我部家とその家臣団を下士とみなす風潮は、施政的にも当然のことながら当初は無かったはずである。ただでさえ一豊の土佐入りには、長宗我部サイドの猛烈なレジスタンス抵抗運動が激しく、一豊なにするものぞという反骨精神が旺盛だった。 高知県庁HPには、長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内と題して、「石丸神社と六地蔵一領具足の碑・元親の跡を継いだ四男盛親は関ヶ原の戦いにて西軍についてしまい、土佐の所領を取り上げられてしまう。それに反対した一領具足たち273人は「旧主に土佐一郡(半国とも)を残して欲しい」と浦戸城へ立てこもってしまう。しかし、ことごとく捕縛され斬首にされてしまった。首は大阪に送られ胴体がこの地に埋葬された(浦戸一揆)。石丸神社はその胴体が埋められた跡に建てられた神社であり、その浦戸一揆の悲劇を後世に伝えられるために建てられたのが一領具足の碑である」と記されている。参考資料:URL http://202.254.165.145/soshiki/111602/kanko-chosogabe-shiseki.html ご存じであろうとおもうが、安住の地としての一豊とその妻の墓所は京都の妙心寺塔頭にある。その一事をもってしても一豊の土佐における苦心惨憺ぶりが窺えるのである。もしも浦戸一揆に続いて、頻発して一揆でもおきようものなら、一豊の無能ぶりが家康以下の幕府閣僚に流布してしまう結果になったのだ。断腸の思いで、全員を斬首しなければならなかった浦戸一揆の招いた苦悩が、いたって鈍感なわが身にさえも迫ってくる。 関ヶ原から270年ちかく続いた徳川支配その幕末の世だったからこそ、大河ドラマ龍馬伝でご覧になられたであろうような上士と下士の歴然たる身分差別が陰に陽に行われていたのであろう。士農工商という身分制度による確たる幕府の基礎が定まったのは、三代将軍家光の代にはいって寛永令とよばれる改訂武家諸法度や禁中並びに公家書法度等が施行されてからである。大坂冬の陣・夏の陣により、徳川氏を脅かす豊臣家が滅びてからでも20年の歳月を経ていた。財政基盤が盤石だった初期徳川幕府でさえ、制度改革には将軍代替わりをふくむ長い時間を要している。だが諸制度がいったん確立してしまえば、徳川幕府の財政破綻が危惧されるまで、それはより強固な施政方針として延々と継承されつづけたのである。幕末に立ち上がった志士の数は、せいぜい合わせても500人だという。 作家・コラムニスト・第二海援隊Webmaster 服部光一(はっとり・こういち)
幕末に立ち上がった志士の数が500人ほどだったとは、意外に少なくて驚きました。
志があれば人数なんて関係ないんですね。
投稿情報: 横山嘉亮 | 2010年3 月15日 (月) 13:05
服部さんの「龍馬エッセー」は、内容がとても詳しく、そして興味引かれるものですね。歴史のロマンを大変感じます。
また同時に、現実は非情で残酷であったこともよくわかります。
ところで、最近の歴史ドラマは、視聴者に配慮してか、それとも視聴率をとるためか、史実にないものを脚色して放送しているようなことを聞きました。
嘆かわしいことですね。
投稿情報: 佐々木 清行 | 2010年5 月 4日 (火) 02:38