(3.24.2010 by Kouichi Hattori)
七分咲きの高遠コヒガンサクラと白モクレンの花弁に、ことしもやさしい春の雨がやむことなく降りつづいている。1年はすぎてしまえばじつに早いもので、96年2月12日に亡くなられた司馬遼太郎さんの菜花忌も、すでに14回を数えたことになるのだ。「竜馬がゆく」文春文庫全巻をそろえた書棚の向こうに、ガラス窓越しながらも降りしきる雨に濡れる小庭をときおりみやりながら、ネットで坂本龍馬・出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を読んでいる。なかなかよくまとめられていると感心しつつ、放映中の大河ドラマ龍馬伝のあたりまでを通読してみた。武市半平太ひきいる土佐勤王党と参政・吉田東洋との軋轢が極まり、やがて龍馬は土佐脱藩を決意する。龍馬の飛翔は、土佐脱藩から始まったといっていいだろう。乙女姉さんはじめ家長の権平ほか家族の理解がなければ到底決断できることではなく、脱藩の罪は本人はもちろん一族にも及んだというから、相当な覚悟がないとできることではなかった。ふつうなら躊躇するのが当然だろう。
だが、あえてそれを許した坂本家の人々も偉かった。ウィキペディアの末尾には、龍馬没後である明治維新になってからの、家系としての坂本家の人々の動静がたった一行綴られている。寡聞にして知らなかったが、いま土佐に坂本家の末裔らはどなたも住んでおられないらしい。「郷士坂本家は5代当主の直寛の時の明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない」、桂浜の丘に立つ龍馬像、生家跡地の誕生碑、高岡郡梼原町(ゆすはら・ちょう)にある『維新の門』など龍馬ゆかりの顕彰碑が数多く点在し、いまでは高知空港でさえ龍馬の名を冠した空港名になっている。商いを営む坂本家に親しく出入りしていた顧客でさえ、龍馬の脱藩という行為がもたらしたことによる藩からのお咎めを怖れ、離れるひとも少なからずいたことだろう。脱藩直後に浴びたであろう世間の蔑視や敬遠にも似た想い、また維新後に正四位を授かったことによる羨望等々、毀誉褒貶はつきものである。
そうした同時代人という世間から浴びる毀誉褒貶を、疎ましく感じての南国土佐から北国北海道への土佐訣別移住ではなかったかと考えられないこともない。日本の大掃除をやってのけた偉大な人物・龍馬の功績を現代人は手放しで称賛する。現代人にとっては140年も昔に生きた歴史的評価が定まった偉人をいくら素直に褒めても、自らの人生に被害実害が及ぶことなどないから安心して褒めることができる。吉田東洋の暗殺後に土佐一国を尊皇攘夷思想に染め上げようとしていた、土佐勤王党主宰・武市半平太らの行為を苦々しく想っていた藩主である老公・山内容堂のさじ加減ひとつで、武市以下なみいる下士らの首が飛ぶことなどなんでもなかった。草の根の庶民階層は総じて、いつの世も器量じたいが小さく、わざわざ日本の大掃除のために立ち上がろうとはしない。そんな大きなことに想いをはせることなどない。とことん食えなくなるまで伝統的な風習にすがりつく。危険を察知する能力には長けているから、被害が及ぶと危惧されるやサッと身を翻しがちだ。
作家・コラムニスト 服部光一(はっとり・こういち) 第二海援隊Webウォッチャー著者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC
住谷寅之介
「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
平井収二郎
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
東久世通禧
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、
なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。
龍馬の度量や到底測るべからず」
土方久元
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、
また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
三吉慎蔵
「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。
容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。
但し胆力が極めて大なり」
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