今日(1月31日)放送の大河ドラマ「龍馬伝」でも取り上げられる、ペリー来航。
この一件が、明治維新に向けた実質的な転換点になったのは間違いない。
今までの「鎖国」から「開国」に転換し、それに伴う社会混乱が徳川幕府に代わり西欧列強に対抗できる国家づくりを求める大きなうねりになった、という意味で、日本史上でも5本の指にいれてもいい位の重大事件であろう。
そのペリー来航については、「開国を求めるアメリカがいきなりペリーを派遣して、砲艦外交・つまり力づくで条約を結ばせた」というイメージが先行しているように思われます。しかし、「ペリー以前からアメリカの外交的アプローチがあり」、しかも当初は「平和的手段」だったのです。
平和的?実はいきなり黒船・大砲による恫喝ではなかったのです。これは当時蝦夷地(現在の北海道)沿岸に頻繁に現われ、同じように交易のために開港・条約を求めたロシアも同じアプローチでした。つまり、敵対関係ではない国・日本との外交交渉、通商開始を求める手段として、アメリカ(そしてロシア)が取ったのは
「漂流した日本人をお連れしました。このお近づきを機会に交易をはじめたいのですが。」という低姿勢なものでした。
通商を求める要求は以前からあったのですが、アメリカ政府としてはまず非武装の民間商船モリソン号に漂流日本人7名をお返しする、ということで薩摩沖であり、浦賀に現われたのが最初の正式なアプローチです。(1837年、ペリー来航の16年前)
ところが、当時の幕府の政策は「外国船打ち払い」が大原則。問答無用で大砲を打ち掛け追い返してしまいます。
次のアプローチは、1846年(ペリー来航7年前)。今度は正式なアメリカ大統領の親書を持って、東インド艦隊提督ビッドルのもと、3艦を派遣しました。あくまで下手に出たアメリカですが幕府は拒絶。ビッドル自身も力ずくでも交渉を、と思わなかったのでこの時は引き下がったのですが、アメリカとしては「これだけこちらが下手に出ているのに、全く交渉の余地がないのであれば、今度は力を見せつけ、日本になめられない様にするぞ。」と思っても仕方がないだろう。
そこで、「今度は力を見せつけて、交易、中継基地として開港を勝ち取る」ために指名されたのが、ビッドルの後任ペリーであった。(続く)
志塾3期生
山本晃司
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