都市銀行入行直後の大阪支店には3年10か月在籍した。やさしく接してもらえた新人教育ローテーション期間が終わり、2年目の春になると、後輩たちが支店にも独身寮にも大挙入ってきた。まだ高卒でも入行できた頃だったので、5年目までは大学卒かつ年長の後輩がいるわけである。しかも彼らは東大をはじめ旧帝大や早慶等有名私学の経済学部出身者であり、銀行人事部は彼らを最初からエリート将来の幹部候補生として遇していた。地方の商業高校出身者など、さしずめ将棋の駒でいえば、代わりはいくらでもいる成金なしの歩としか見なされていなかった。洗濯物の下をかいくぐり、溝板をふみつつ、せっせせっせと革靴をすり減らしながらも足繁く顧客を訪問し、オーバーローン解消のために必要な預金獲得競争に奔走すれば、「所帯を持てるぐらいの給料は出してあげよう、生涯にわたり面倒も見てあげよう、支店長や副支店長あるいは営業課長くらいにはしてあげよう。そのためには顧客の心をつかまなければ話にならない、だれからも愛される人間になりなさい。そのためには我が身を捨てて、他人様に尽くすことが大切だ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるんだよ、重いままでは沈んでしまうし、他人様からはけっしていい評判を得られない。聞き上手に徹して出しゃばらず、お客様に親切に接するのは当然のことであり、また上司・同僚・部下そして女子行員の誰からも愛されなければ話にならない。変人扱いされ、はなから人に嫌われていては、マネジャー管理者として失格の烙印を押されてしまいかねない。おかねが欲しいだろう、だったら銀行員としてのルールを誠実に守って生きてゆきなさい。サラリーマンは、なんだかんだいっても心太(ところてん)なんだから、待てば海路の日和ありで、若いときの苦労は買ってでもしておきなさい」等々、まあ多岐にわたりいろいろとアドバイス戴いたものである。いちいち反抗することもなく、表面上は黙って聴いておいた。大企業であれ中小零細企業であれ、はたまた地域や家庭のどこをとっても、人間社会という組織はいずこも村社会であり、村の掟を破ってしまえば、村から追い出されたり村八分に遭うのはあたりまえである。じつは所属する組織の組織人に徹して生きることとは大変なことである。それは時代が変わっても、あの龍馬や岩崎弥太郎また武市半平太らが、「幕末土佐藩・下士(旧長宗我部家臣団)の身分を誠実に生きよ」と諭されることと大差はないはずである。(つづく)
服部光一(はっとり・こういち)
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